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【 ストレイシープ 9 】


  横澤よこざわから再検査用さいけんさよう検体けんたいを受け取り、一緒に昼食を済ませた佳江よしえは研究室に戻っていた。午前中からの緊張きんちょうが昼食でゆるみ、つい眠気におそわれそうな午後の二時頃、そんな佳江のポケットでスマホがふるえる。

「アイツか……」

 スマホの画面を見た佳江は「チェ!」と舌打ちして廊下に出た。

「佳江か、どうして連絡よこさない。和哉かずやのことはどうなってるんだ」

「こんにちは冨田とみたくん。電話はまず挨拶から始めるものよ」

何気取なにきどってるんだ。そうなことより、和哉のことを話せ」

「まってよ、本当に自分勝手なんだから。今は仕事中よ、話は後にして。取りあえず順調じゅんちょうに進んでるわ」

「順調って、何の話だ。それじゃぜんぜんわかんないぞ」

「今夜にでも会う。ちょっとだけなら時間作るわ」

「わかった、何時頃になる?」

「そうね…… 八時くらいでどう?」

「わかった、場所はこの前のところでいいか?」

「わかったわ、じゃ」

 なく、佳江は電話を切った。

 佳江がその店の扉を開けたのは、約束の八時を少し過ぎていた。冨田は待ちくたびれた風でビールを飲んでいたが、佳江の顔を見ると「よう」と手を上げた。

「お待たせ」

「あぁ、待ちくたびれたよ」

 そう言うと、冨田はコップに残ったビールを飲み干してから、手酌てじゃくでコップにまたビールを注いだ。

「そんなとこまで、話は進んでいるのか」

「そうよ。明日、結果を連絡するわ」

「で、どうだったんだその結果は?」

「そこなのよ、実は……」

 再検査の結果はどうしたわけか、前回の結果とはかけ離れたもので「異常なし」だった。いや、正しくは「少しなんあり」というところか。

 つまり「正常とまでは言いかねるが、頑張れば子どもができる」というのが、佳江の検査結果だ。

「よかった…… ホッとしたよ」

「私だってそうよ。これで、堂々と和哉くんに結果を話せるわ」

「しかし、なんだってそんな結果になったんだ。違う人間とちがえたのか?」

「この結果から考えると、そうとしか思えないわ。だって前回の結果は、自然に治るようなものではなかったのよ。でも、今となってはどうにもわかんないわ。『取り違えがあったものと推測すいそくされる』って感じね。調査不可能ちょうさふかのうってことよ」

「ま、いずれにしても結果オーライだな。しかし、そんなことよくあるのか?」

「まさか、こんなことは初めてよ、前代未聞ぜんだいみもんだわ。でも、もしかしたらまだあるかも……」

「そうなのか?」

「うん、正直に言うとね。だって私たちの研究はサンプルをたくさん集めて、現状げんじょう把握はあくするものなのよ。患者かんじゃ治療ちりょうするものじゃないから、個人の特定に対しては少しルーズだったみたい。反省点だわ」

「そうか…… ところで、その調査からわかった結果はどうなんだ。昔と比べて今の男って?」 

「まだ調査継続中ちょうさけいぞくちゅうだから断言だんげんはできないけど、たぶん昔の人に比べておとっていると思うわ」

「何が劣っているんだ?」

「何がって、つまり男の人の子どもを作る能力のうりょくがよ」

「子どもを作れない男が増えてるってことか?」

「うん、その傾向けいこうはあると思う」

「そういうもんなのか……」

「使わない機能きのう衰退すいたいする。自然の摂理せつりかなぁ~」

「使わないのか? 今の男って」

種馬たねうまみたいに、片っ端から女の子にちょっかい出している誰かさんとは違うみたいよ」

「なんだってとげのある言い方だなぁ、だけどオレの会社の若い奴らも同じような感じするよ。女の子には興味ないって平気で言うもんな」

「時代は変わったってことよ。あなたのような人は、そのうち珍しい人間の代表みたいになるわよ」 

「け、ほっとけ。オレの方こそ、そんな世界はまっぴらだね」

「あはは、もちろんほっとくわ。古代人の生き残りさん」

「いちいちしゃくにさわる言い方だなぁ」

「そう聞こえる? きっと普段の行いが悪いからよ。さてと、じゃ明日和哉くんに連絡するわ。そうとう参っていたから、きっと喜んでくれると思うわ」

「そうしてくれ。それと、これは念のため聞くけど……」

 何かを考えているように黙り込んでから冨田が言う。

「本当に今度の結果を信頼していいんだな?」 

「どういう意味、それって私が故意こい細工さいくしたってうたがっているの?」

「だってよ、あまりにもかけ離れた結果だからさ……」

「和哉くんから検体を直接私がもらって、誰の手も触れさせずに私がちゃんと検査した結果よ。失礼だと思わない、そんな言い方! まるで私が小細工こざいくでもしたみたいじゃない」

「それを聞いて安心した。お前の目は嘘つきの目じゃない。これでオレも今日はゆっくり眠れそうだよ」

「あら、あなたが眠れないなんて、そんなに心配してたの?」

「そりゃそうだよ、大事な親友が不幸のどん底に落ちるかどうかの瀬戸際せとぎわだったんだぜ、いくらオレでも心配したよ」

「ふん、親友ね~ 恋人の私はほったらかしていたくせに!」

「そう言うなって、あの時は悪かった。オレもガキだったからさ、反省してます」

「あら、今日はいやに素直じゃない」 

「その埋め合わせに、これからどうだ」 

「なにそれ! 今さら何よ! 私は『人の男には興味ない』って言ったでしょ、忘れたの? さっさと帰って奥さんに面倒めんどうみてもらいなさい」

「はいはい、そうしますよ」

 そう言って店を出た二人だったが、向かった先は地下鉄の駅ではなくホテル街だった。

「これが最後だからね、絶対最後だからね。約束して、もう奥さんを裏切るようなことしないって」

 佳江は冨田に抱かれながら、うわ言のように何度も同じ言葉を繰り返した。

「あぁ、わかっている。これが最後だ」

 佳江は冨田の言葉を聞きながら、「そんなの嘘だ」と心の中でつぶやいていた。

 

 翌朝、佳江はホテルのベッドで一人目を覚ました。テーブルに置いてあったメモには「ごめん、今日は早朝会議があるの忘れてた。この埋め合わせは後日。ホテル代は支払い済み」と、書いてある。

「嘘つき、最後って言ったでしょ」

 佳江はシャワーを浴びてから、時計を見た。朝の六時を少し過ぎている。

 宿泊した部屋は、遮光しゃこうカーテンがひかれていて外の様子はわからない。そのカーテンを少しだけ開けて外を見ると、一面の雪景色だった。

「やられたわ。これじゃ部屋に戻って着替えてなんてやってたら、朝の渋滞に巻き込まれるわ」

 少し考えてから佳江は、部屋の電話でフロントを呼び出した。

「はい、フロントです」 

 中年男性の声が、受話器から聞こえてくる。

「ちょっと確認したいのですが……」

「はい、なんでしょう」

「ここのお部屋代は……」

「305号室ですね。えぇ…… と、あ、お連れ様かな~ 支払い済みになっております」

「そうですか、ありがとうございます」

「いいえ。何かありましたら、またご連絡下さい」

「あ、待って」

 フロントが電話を切る直前、佳江は少し大きな声でフロントを呼んだ。

「はい、まだ何か?」

 フロントの男性は、ちょっと迷惑そうに電話を続けた。

「モーニングのサービスはあります?」

「はい、宿泊の方には無料で提供しています」

「メニューは……」

「あ、当ホテルの案内に乗っています。テーブルの脇にないでしょうか?」

 そう言われ、佳江はテーブルを見たが、見当たらない。

  探し物は、探している時には見つからないものなのだ。特にすぐ欲しい、緊急性きんきゅうせいがあればあるほど、見つからないと相場そうばは決まっていた。見つかるのは、たいてい必要がなくなった時である。

「ちょっと見当たらないので、メニュー教えて頂けますか?」

 佳江は、ことさらすまなそうに言った。

「モーニングサービスは、お茶漬けのセットと、カレーにサラダが付いたもの、後はピザトーストになります」

「これからでも、お願いできますか?」

「はい、何にいたしますか?」

「では、ピザトーストを」 

「かしこまりました」

「さてと、シャワーは終わったから、ピザ食べて、化粧して…… どうせ白衣着るから、服はこのままでもいいわ。でも、下着とパンストはちょっとね……  しかたない、ここを出たらコンビニ直行だわ」などと独り言をいいながら髪を乾かしていると、チャイムが鳴った。

 おそるおそるのぞき窓から外を見ると、手押しのトレーに乗ったピザトーストが扉の前に置いてある。

「なるほど、そういうシステムなのか……」佳江は呟きながら、扉を開けワンプレートの皿を手に取った。

 インスタントのコーヒーを入れ、ベッドであぐらをかきながらピザを食べ、テレビのニュース番組を見ていると、もう時間は七時を過ぎた。佳江は本格的に準備を始め八時少し前にホテルを出る。

 大通りのコンビニでパンストとショーツを手に取り、「いくらコンビニでも、ブラは無理か」と呟きながら、ついでに暖かいお茶を買いコンビニを出た。

「おはよう、いい知らせよ。今回の再検査の結果、あなたの精液に大きな異状いじょうは見つからなかったわ。子どもを作るのに少し苦労する程度のものよ。詳しくは、お会いして話したいわ。時間作れるかしら?」 

 佳江は研究室に着くと、横澤にこんなメッセージを送ってからロッカールームに向かった。そこでは後輩の研究員が二人、白衣に着替えていた。

「ヤバい」扉を開けた瞬間、佳江は思った。すぐ扉を閉めようとしたが、それより早く後輩の一人が佳江に気づき「おはようございます」と挨拶してくる。 

「おはよう」と、しかたなく佳江は挨拶を返し、自分のロッカーを開けた。

「あれ、先輩! もしかして、昨夜は彼氏さんとお泊まり?」

 後輩の一人が、佳江に向かって言う。

「な、何を……」

 不意ふいかれた佳江は、真っ赤な顔になりどもったように言った。

「本当だ。昨日の服そのままって、先輩大胆!」

 もう一人の後輩が、ちをかける。

「あちゃ、どうして今時の子って、こんなとこにだけ鋭いのよ」

 そんなことを思いながら、佳江は仕事用の顔を作って言った。

「言いふらしたら、レポート二倍。いや三倍だからね」

「そんなことしませんよ、ねぇ~」 

「そうそう、絶対秘密にしま~す」

 そんな後輩の話を聞きながら「嘘つけ! これでまた、ふしだら女とうわさまとか」と、佳江は思った。

   -つづく-


Facebook公開日 3/16 2021



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