エッセイテーマ:大切なもの 「新聞配達」NUE
ホンダのスーパーカブを知っていますか。
細い車輪を着けたレトロなデザインの原付バイクなんですが、こいつは足の遅いわりにとにかく頑丈なんです。
運転手(自分)が砂利でずっころんで膝血まみれになっても、こいつはポキっとミラーが折れておしまい。それも次の日には新しくなってて、ハンドル捻ると百世帯分の新聞を乗せて何事もなくノロノロ走り出します。
ロバスト性のロバは驢馬のロバ(ちがう)。
そんな信頼性の鬼みたいな乗り物を使って自分は新聞を配達していた時期がありました。
大学に入ったら新聞配達奨学制度(新聞配達員になって給料と学費を貰う制度)を利用するつもりが、いざ入学したらその大学のある地域ではどこの新聞社も奨学生の受け入れをしておらず、結果なぜか中途半端に職場だけ紹介されたという経緯です。
普通は断るところですが、自分はぐだぐだ成り行き任せに生きているもんですから、阿呆なことにそこで実際に働き始めてしまいました。
だけどその割に、大学時代の記憶を振り返ると真っ先に浮かんでくるのはこの頃の思い出だったりします。
殆ど怪我した記憶ばかりで美談なんて一個もないのに、学友と遊んだ記憶よりも夜の空気を全身に浴びてスーパーカブを走らせていた頃の記憶が一番鮮やかだったりします。
確かに真夜中に街や団地の中にあってその空気を感じるのは面白かった。
深夜の風景って昼間とはまったくの別世界なんです。
車も人も見渡す限りいなくなるし、明かりもまばら。聴こえる音は自分が運転するバイクのエンジン音だけ。そうなると見慣れた風景があたかも異世界のように感じられます。
好きな小説に『キノの旅』というのがあるんですが、ちょうどあんなかんじといえばいいでしょうか。たった一台のバイクで知らない土地を一人旅しているみたいな。
まぁ、とはいえ、さすがに毎日変わらないルートを配達するので、すぐに異世界感覚は薄れていきます。
現代日本なんで『夜間飛行』ほどのスペクタクルなんてありません。怖いのはせいぜい番犬くらいですから。
一番驚いたことといえば道端で倒れてる人をびくびくしながら起こしたことくらいで、冒険なんてなかったです。
そんなルーティンワークの毎日なんですが、偶に普段とは違う光景に出くわすことがありました。
あれはちょうど春から夏に季節が移ろいはじめた時期だったかと思います。
まず日が昇る時刻がどんどん日を追うごとに速くなることに気が付いて、同時に放射冷却による底冷えも厳しくなっていきます。
砂漠では夜が寒いみたいな話を聞いたことがありますが、本当に一日の中でこんなに体感温度が変わることあるんだなぁとしみじみ思っていました。
そんなある日なんですが、一瞬、冷蔵庫の中に入ったみたいな感覚になったかと思うと、ふいに風景の輪郭が青み掛かって見えたんです。
だけど一向に夜明けはやってこない。
それでふと天空を見上げたんです。
その瞬間でした。ぱっと白い光が差したんです。
そしたら空に真一文字の光の線が走っているのが見えました。
思わずバイクを停めて眺めてしまいました。どういう原理かわかりませんが、その日たまたま平らな雲が空を覆っていたんです。その所為で太陽は昇ってこられずなかなか光が差してこなかったんですが、いざその雲の上に太陽が顔を出した瞬間それはまるで地平線から朝日が現れたかのような風景を生み出したんです。
それも不思議なくらい直線の雲で、光が綺麗にその上を走る光景はどんなご来光よりも神々しく見えたものでした。
また秋が深まった頃。
その日はよく晴れた夜で、見上げても雲が一つも見えません(夜でも雲はよく見えます)でした。
その頃には月の満ち欠けの周期が体に馴染んでいて、その日が満月だというのは予報を見なくても知っていました。
それもそのはずで、新月の闇の中から徐々に月の明かりが増していくと、どんどん住宅の輪郭がくっきりと見えるようになっていきますんで、それを毎日見ているとそれがよく分かるんです。
その日、出発前にちょっと空を見上げると星がよく見えませんでした。その代わり真ん丸の月が黄色く光って見えました。
ちょっと山がちな土地に配達に行っていたので、ほっと安心しました。
なんせ暗いですから。少しでも明かりが多い方が心が落ち着くのです。
余談ですが、新聞配達をしていた時期は極力ホラー映画の鑑賞を避けていました。
さて、いつも通りに配達に出かけたわけですが、その日は手元が明るいお陰か配達ミスもなくスムーズに仕事を片づけていくことが出来ました。
そして深夜のあれは二時から三時の間くらいだったように思います。例の山の団地に到達しました。
斜面を上っていくと、どんどん街灯が少なくなっていきますが、案の定いつもよりちゃんと足元も見えて安心しながら仕事をこなすことが出来ました。
だけど、ふいに停めていたスーパーカブがエンストを起こしてしまったのです。
バイクの明かりも重要な光源なので、自分は慌てて椅子に跨ってがちゃがちゃとスターターを蹴り始めました。
そのとき、ふと周囲の異変に気が付きました。
なんと言えばいいのか、風景が全て白に包まれていたんです。
雪の白とは違います。それよりももっと柔らかな色の白でした。
空を見上げたら月が天頂にありました。
そのときちょうど真上から月光が降り注いでいました。
つまりその時間帯が最も明るい夜の時間だったんです。
驚いたのは道端に差す電柱や屋根の影がくっきりと黒く映えていたことです。
まるで真夏のようでした。
『宝石の国』という漫画で登場する月の世界がまさしくそんな白と黒のシャープなコントラストで描かれています。本当にちょうどそんな感じなんです。
それで合点がいくのですが、『雨月物語』の中の『吉備津の釜』で、怨霊に狙われていた男が夜が明けたと勘違いしてけっして出てはいけないと言われていたお堂から出てしまう場面があるのですが、もしも満月の晴れた夜であったら勘違いをするかもしれませんね。
きっと産業革命以前の人々はこういう自然の移ろいや珍しい光景などを日々目にしながら生活していたのでしょう。
月の満ち欠けを数えたり、日の長さの周期を観測していた昔の人の気持ちが何となく分かったような気がしました。
日常的に小説を書くようになった今、この頃のことを思い出すと、わりと自分の発想の根っこにはいつもこれらの経験があることに気が付いて、また驚いたりしています。
これが小説を書くときに大切にしている心象の風景です。
エッセイ「大切なもの」~新聞配達~
書き手:NUE
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