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【短編小説】無敵の美学 加藤冬夏

無敵の美学
                                                                           加藤冬夏 

 

 どうしようもない恋の話をさせてほしい。
 つまり私の恋の話なわけだけど。

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 まず手始めに初恋について。

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 それが恋だったのかどうか、正直なところ今でも私にはよく分からない。だけど話を簡単にするために、とりあえずそれを恋ということにしておく。
 相手は中学校の同級生でアズミという。入学して最初の席で隣同士になった。
 アズミはクラスの男子の中でも特に背が低く、そのせいで目減りする存在感を補うようにやたらと声が大きかった。サッカー部に所属しているので友達が多く、そうでなくても誰に対しても屈託なく話かけるのでクラスの中で誰よりも目立っていた。
 正直に言うと、そういう人種は苦手だった。その頃私は、自分がもつあらゆるものを嫌悪していた。ひょろっと伸びた背も、ニキビの多い肌も、常に相手を睨んでいるように見える目も、何もかもが嫌いだった。そして私は、アズミのような屈託のない人間が、その屈託のなさでもって、無邪気に人の特徴を笑うということを経験的に知っていた。だからなるべく関わり合いになりたくないと思っていたのだ。
 しかしアズミの屈託のなさは、私が作ろうとした距離を軽々と超えてきた。
 ……というより、アズミとしては超えざるを得なかったし、私もそれを許容せざるを得ない状況になった、というのが正しいかもしれない。
「なあ、教科書見して」
 そう言って、アズミはよく机をくっつけてきた。
 アズミは壊滅的に忘れ物が多かった。忘れ物がない日がないんじゃないかと思うくらい毎日何かが足りていなかった。
 たまに持っていると思っても、教科書はなぜかボロボロだったり、ページが破れていたりするし、鉛筆は折れているし、ノートに至っては頻繁に行方不明になって二度と出てこなかった。どうしたらそうなんの、と思わず言ってしまった私に、アズミは持ち歩いているとこうなるんだよね、と答えて、自分でも首をかしげていたものだ。
 アズミの反対の隣は廊下側の壁だった。したがって私以外に彼を助けてあげられるものはおらず、私は仕方なく繋げたふたつの机の中央に教科書を置いたのだ。
 最初は『山森さん』だった。思い返すとこそばゆいけど、最初は確かにそう呼ばれていたはずだ。それが気づけば『ヤマモー』というセンスのないあだ名に変わっており、呼ばれる度に嫌だと言い続けていたら『ケイちゃん』と下の名前で呼ばれるようになった。びっくりするぐらい馴れ馴れしいが、アズミはそうすることに違和感を持たせないキャラクターなのだ。その呼び方を受け入れてしまっている自分を自覚しながら、親が常日頃言っている愛想や愛嬌が大事っていうのはこういうことなのかとしみじみ思ったものだ。
 席替えで隣同士じゃなくなってからも、アズミは度々私にいろいろなものを借りにきた。参考書のこともあったし、シャープペンや消しゴムであることもあったし、お昼ご飯代のこともあった。なんか借りやすいから、とアズミは屈託なく言った。便利に使うな、と私は毎回文句を言った。
 今思えば、お互いに共通する匂いみたいなものを、無意識のうちに嗅ぎ取っていたんじゃないかと思う。
 ある夜、私は公園でアズミに出会った。アズミは所在なさげにブランコに座って夜空を眺めていて、私に気づくと気まずそうに笑った。
 母親がヒスってて家入れない。
 アズミはごく簡単に、そんなようなことだけ言った。私は塾の帰りだったが、家に帰りたくなくて深夜のサイクリングにしけこんでいたところだったので、ちょうどよかったと隣のブランコに腰を下ろした。昼間、学校で会うのとはうってかわって、アズミの声は静かで、大人びていた。よく破れているノートやすぐなくなる筆記用具は、もしかして母親のせいなのかな、とぼんやりと思った。
 その後、私達は何度もその公園で落ち合ったが、お互いの家庭事情については今でも詳しいことは知らないままだ。ただ、家に居場所がない人間には特有の匂いがあり、その匂いが私を安心させた。それはアズミも同じだったのだと思う。
「ひとりで生きていきたい」
 何度めかの夜、私はそう言った。
「一生ひとりで生きていく。それがダメならいっそ死ぬ」
 季節は秋になりかけていた。昼間は暑かったが、夜になって冷たくなった空気が半袖から伸びた腕を冷やした。私は泣いていた。何かに怒っていたのだと思う。何に怒っていたのかは、もう忘れてしまったが。
「かっこいいね」
 慰めでも、ましてからかいでもなくアズミは言った。
 私はひどく驚いた。夜の公園で泣くことしかできない自分をなさけなく思っていたから。
 私は涙を流していたが、それはアズミに助けてもらおうとか慰めてもらおうとか思ってしたことではなかった。むしろ本当ならそんな姿は見せたくなかった。夜の公園で、苦しいことなんて何も気にせず馬鹿な話をして笑っている私達は無敵だった。誰も、私達自身も、その時間には手出しすることができないはずだった。
 それなのに、当の私がその暗黙の約束を破ってしまったのだ。我慢ができなかった。止めたくても、涙は勝手にこぼれていた。怒った内容は、今忘れているくらいだから多分大したできごとではない。でも当時の私には、生きるか死ぬかくらいに大きなできごとではあった。
 大人にとってはどうでもよくても、中学生にとっては命がけに思えることって結構あるものだ。
「……かっこ悪いでしょ、どう見ても」
「そーかな? ケイちゃんの考え方すげーかっこいいと思うよ。俺そういう風に思えないもん。前からすげーなって思ってた」
「ボロクソに泣いてるのはいいのか」
「いやそれもさ、悔しいからじゃん? 俺笑って流しちゃうもん。本当はもっと怒っていいんだと思うんだけど、できないんだよ。笑ってる方が楽だし」
 他者の言ったことを素直に受け止め、それに対して前向きに反応できる屈託のなさが、アズミの持ち合わせた稀有な美徳だった。私と対極にある性質。
 アズミの前にいると、私は自分が、私が思っているよりもずっと立派な人間のように思えた。
「ケイちゃんはかっこいいよ。友達ん中で一番かっこいい」
 その言葉は、多分アズミにとってはなんでもない言葉だった。もしかしたら私以外の誰かにも同じようなことを言っていたかもしれない。
 そしておそらく、私以外の人がこれを聞いても、私ほどの衝撃と歓喜は感じなかったと思う。誰が思うだろう? この言葉が、その後の私の生き方を決めてしまうなんて。
 私にとってアズミは特別だった。アズミにとってはそうじゃなかったと思うが、当時の私にとって、私を肯定してくれる人はアズミくらいしかいなかった。しかもそのアズミは、クラスの人気者で誰からも好かれるようなお調子者だ。私とは違う、スポットライトの真ん中に立つような人間。
 そのアズミが、私のことをかっこいいと言った。
 友達の中で一番かっこいいと言ったのだ。
 いつの間にか涙はひっこんでいた。カバンからティッシュを取り出して盛大に鼻をかんでから、私は相変わらずかわいくない声で言った。
「じゃあ世界一かっこよくなるわ」
「サイコーじゃん」
 かわいくない声、じゃない。かっこいい声だ。
 その夜を境に、私は無敵の女になった。

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 二つ目の恋は高校生のときだった。
 これもまた恋と言っていいかどうか分からないが、少なくとも相手になった男は最初の彼氏になったので、つまり最初の恋人ということであり、恋人と言うからには恋をしていたと言ってしまっていいのだと思う。
 高校二年生の夏、アズミに彼女ができた。
 私達は同じ高校に進学していた。私はもともと頭のできがいい方ではなかったが熱心に勉強したおかげで中学でトップクラスの成績をおさめており、そのあたりで一番の進学校へ進んだ。一方アズミは中学の最初から最後まで壊滅的な成績をおさめていたが、サッカーの実力だけはそこそこあり、スポーツ推薦枠で同じ高校に入学が決まった。そうなることを狙っていたわけではないのだが、それがはっきりしたとき私は内心でとても喜んだ。中学三年間を費やして、私とアズミは親友といって差し支えないほどの仲になっていた。
 そう、私達は親友だった。性別を超越した友情。あるいは、苦楽を共にする仲間のようなもの。
「彼女ができた」
 やけにかしこまった様子でそう打ち明けられたときも、私は動じなかった。いつかそういう日が来るとは思っていたし、何よりそこで動揺するのは『かっこいい』人間のすることではない。
「それはおめでとう」
「……写真見る?」
「別にいいかな」
「すいません見てくださいませんか」
 携帯電話の小さな画面に映し出された女の子は、お嬢様校で有名な隣の女子校の制服を着ていた。肩より少し長い髪と胸元の赤いリボン。恥ずかしそうにわずかに首をかしげて笑っている姿は、芸能界を目指していると言われても納得してしまうくらい輝いていた。
「めちゃかわいーじゃん」
「だろ!? しかも性格もいいんだよ〜。この間なんて……」
 アズミの惚気を聞き流しながら、私は頭の大半でまったく別のことを考えていた。
 アズミに彼女ができた。対する私はまだ誰とも付き合ったことがない。そして私は、世界一かっこいい女だ。あの夜の公園でそう決めた。
 次の週には彼氏ができていた。相手は同じ高校のサッカー部で、当然アズミの友達でもあった。アズミはとても驚いた。
「ふたりとも全然そんな風に見えなかった」
 それも当然だ。少なくとも私は、一週間前までは好きだなんて少しも思っていなかったんだから。
 ひとしきり騒いだ後、アズミはふと思いついた顔をして言った。
「でもいいなー! みんなで遊びに行けるじゃん! 俺の彼女も誘ってさ〜」
 いいね、と私は答えた。
 あの晩夏の夜を境に、私の人生は一変していた。いや、そんな他人事ではない。他でもない私自身が、私自身の力でもって私の人生を一変させたのだ。得意でもなかった勉強がトップクラスになったのも、積極的に人と関わるようになったのも、年齢を偽ってアルバイトをしたのも、そのお金で皮膚科に通ってニキビの治療をしたのも、全部全部私自身の努力によるものであり、何一つ偶然の産物ではない。人が変わったようだと周りに言われたが、それはある意味正しくて、あの夜を境に私は、狂気じみた執念でもって『山森圭』という同じ名を持った、しかしまったく違う人間を作り上げたのだ。
 アズミの隣に立つのにふさわしく、また、アズミが憧れるような、世界一かっこいい無敵の女。
 私の行動原理はすべてそこにあり、私は私が望むから何かをするのではなく、私の目指す私が望むべきだから何かをするようになっていた。つまり、例え自然本来の私がやりたくないと思うことでも、私の目指す私がやりたいと思うべきことなら自然本来の私の意思を無視してでもあるべき姿を優先したのだ。私は何度も私を殺した。自分に自信がなく、いつもおどおどして、恨みがましく相手を見つめることしかできない私を、ただ強固なる意思の力のみによって何度も踏み潰した。
 狂気じみていると我ながら思う。けれども、それくらいの覚悟がないと人間というものは変わらないのだと私は今でも強く思っている。
 そういうわけだったので、アズミに彼女ができたことを知った私が、アズミと同等もしくはその上に行くために自分にも恋人がいるべきだと思ったのはごく自然のことであり、またそれをすぐに実行に移したのも特段珍しい話ではなかった。無敵の女は行動も早いのである。
 彼氏になる人は消去法で選んだ。まず『私』が付き合うべきではない人間を除外して、さらに細かい条件を付け加えていったら、最後にその人が残ったのだ。私は彼を好きになることにして、実際に好きになったので、当然の流れとして告白したところ、めでたく付き合うことが決まった。
 私の恋はいつもそうやって始まる。アズミを除いて、私は恋に落ちるべくして落ちているのである。それがおかしいことだとは思わない。多かれ少なかれ、みんなやっていることだ。
 最初の恋人もアズミと同じくスポーツ推薦枠で入学してきた人だったが、アズミを通して何度か話している感じでは、頭は悪くないんだろうなと思っていた。実際、高校三年生で部活を引退したあと、その人は部活に向けていたエネルギーを全て勉強に傾け、いわゆるFランしか受からないような成績から最終的に国立の工学部に合格していたから、私の見立ては間違っていなかったと思う。
 恋人も私の落ち着いたところを気に入っていたようだ。私たちは静かな付き合いを好んだ。ふたりとも頑固だからときどき喧嘩もしたが、全体を通して穏やかに仲がよかった。
 私たちカップルが最もはしゃぐのはアズミとアズミの彼女と四人で遊びに行くときだった。アズミがいると、私も私の恋人もいつもより少し饒舌になった。アズミのテンションに引きずられたのだと思う。私たちは四人でよく遊びにでかけた。近場のマックでなんとなくお喋りすることもあったし、カラオケに行くこともあったし、泊りがけで旅行に行ったこともある。
 アズミの彼女とも自然と仲良くなった。私たちよりひとつ年下の彼女は恥ずかしがりやで内気な性格をしており、それがかえって四人でいるときのバランスをよくしていた。私達は、まるで四人きょうだいの末っ子にするように彼女を大事にした。彼女も私を姉のように慕ってくれた。
 四人での付き合いは高校を卒業するまで続いた。
 卒業して一ヶ月ほどして、私は最初の恋人と別れた。

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 大学に入学して、容姿を褒められることが多くなった。
 もちろん元々の素材がいいわけもなく、すべては化粧と服と髪型のおかげである。太りにくい体質で、かつ平均よりかなり背が高かったのも幸いした。かわいい女になれと言われたら逆立ちしても無理だったろうが、美人風を装えと言われたらやりようはあった。私は見た目すら着々と『私』になりつつあった。
 二人目の恋人は見た目で選んだ。かっこいい女の彼氏はかっこいい方がいいんじゃないかと思ったからだ。これが失敗だった。
 その人はサークルの歓迎会で出会った同じ大学の先輩で、私は結局そのサークルには入らなかったが、その人とは後日ふたりで遊びに行った。東京生まれの東京育ちだという彼に、地方出身の私でも知っているような有名な観光地を何度か案内してもらったのだ。親切な人だと思ったし、付き合った後もその印象は変わらなかったが、結局この恋人とは三ヶ月ほどで別れた。私が耐えられなかったからだ。
「思っていたのと違った」
 そんな、通販で買ったものを返品するかのような理由で無理やりさよならした。説明する気がなかったのではなく、したくてもできなかったのだ。どうしようもない嫌悪感で別れるしかなかったが、しかし相手に何か落ち度があったようにも思えなかった。恋人は見た目だけではなく性格も非常によかった……などと言いたいわけではなく、相手の性格の深いところを知る前に嫌悪感の方が勝ってしまったということだ。付き合って三ヶ月なんてまだ多少なりともお互いに気を使っている最中だろうに。
 三人目と四人目の恋人とも同じ理由で続かなかった。見た目で選んだせいか、はたまた最初の恋人と違ってその人の人となりをあまりよく知らないまま交際にいたったせいか……あれこれ理由を考えて選定理由を変えてみたものの、状況は変わらなかった。
 こうなると逆に最初の恋人と一年以上続いたことの方がむしろ不思議なのではないか。そう思い始めたところで、アズミと会うことになった。
 アズミは一年浪人したあとに彼女ともども東京に出てきていた。そのうちにまた三人で会おう、という話はしていたが、三人共それぞれ別の学校だったこともあって結局実現しないままでいた。
 そんなアズミから突然連絡が入ったのだ。彼女も含めたグループメッセージではなく、私個人へのメッセージだった。
 新宿の居酒屋で落ち合った私達は再会を喜び、お互いの近況を報告し合った。その場にいない彼女の存在は、私もアズミも一切話題に出さないという行為によって、むしろその存在感を際立たせていた。二杯目のハイボールを飲み終えたところで、アズミの声色が変わった。それは夜の公園で聞いた声に似ていた。
「別れた」
 そうなんだ。私は言った。
 夜の公園でいつもそうしていたように、私は詳しいことを聞かなかった。心を赤裸々にさらけ出すことだけが信頼の証明だとは私は思わない。アズミは悲しげだったがもうその事実を受け入れているようではあった。別れて二ヶ月が経つという。私にはすぐ言うつもりだったけど言えなかったこと、それから、自分たちが別れたあとも彼女と仲良くすることに遠慮はしないでほしいというようなことを言った。
「分かった」
 私はそう言ったが、多分もう二度と彼女とは会わないんだろうなと思った。実際二度と会わなかった。
 アズミは深いため息をついてテーブルに突っ伏した。
「もうどうしようもないんだけどさあ〜……正直しんどい」
「日にち薬しかないよ、そういうのは」
「さみしい……」
「じゃあさっさと次の彼女作れば?」
「それは違うじゃん〜、そうじゃないじゃん〜」
 そうなんだ、と私は思った。ダメになったら次にいけばいいだけだと私は思うが、アズミにとってはそうではないらしい。
 アズミは酎ハイを何度もおかわりしながらグズグズと愚痴のような泣き言のようなことを言い続けた。私は九割がた聞き流していただけだったが、飲み放題もラストオーダーになるころには大体満足したらしく、アズミは一人で結論を出した。
「しばらく彼女とかはいいや……」
 ふーん、と私は思った。ふーん、と思っていたら、自然と言葉が出てきた。
「私も今は彼氏とかいいやって感じ」
「あ、そうなの? じゃあ暇なとき遊ぼうよ」
 あーそっか、と私は思った。そこまできて、ようやく気づいた。
「いいけど、彼女ができたらちゃんと教えてね。めんどくさいことに巻き込まれたくないから」
 もちろん、とアズミは言った。
 私は笑った。

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 恋人は、手段だったのだ。
 考えてみれば当たり前だった。『私』はひとりで生きていく無敵の女だ。あの夜、最初にそれを口にした私には深い考えなんてなく、まして本当に自分の生き方を変えるつもりもさらさらなく、ただ衝動的にその時思ったことを吐き出しただけだった。しかしその考えを「かっこいい」とアズミに認められたことで生まれた『私』にとって、それは存在意義の根幹とも言うべき重要な指針だった。
 ひとりで生きていくことを決意した『私』に本来恋人はいらないはずだ。にもかかわらず、わざわざ好きになるべき人を選定してまで恋人を作ったのはひとえにアズミと同じ位置に立ちたいからだった。
 断っておくが、これはけしてアズミと付き合いたいという意味ではない。むしろ逆で、私はアズミと付き合いたくないから恋人を作ってアズミの横にいるのだ。私はアズミと助け合い、支え合って生きていきたいわけではない。ただ、アズミの憧れるかっこいい『私』でありたいだけだ。
 アズミに彼女がいる場合、私がアズミと仲良くしていたら、いくらアズミがただの友達だと説明したところで彼女はいい気はしないだろう。彼女の気分を害するだけならどうでもいいが、アズミが彼女に気を使って私と距離を置くことにしたらそれは嫌だと思う。
 そういうとき、一番手っ取り早いのは彼女とも仲良くなってしまうことだ。それも、私も私で素敵な彼氏のいる状態で。私にもアズミにも相手がいるという、分かりやすい関係性で固定させてしまえば、疑問を挟む余地がなくなる。誰も不幸にすることなく合法的にアズミの親友でいられる。
 つまるところ、私は恋人をアズミと会うためのツールだと捉えており、そういう意味では条件さえ満たせば誰でもよかったのだと思う。ひどい女だと自分で思う。思うだけで反省する気も改める気もさらさらなかったが、せめてもの罪滅ぼしにこれから付き合う人間には絶対にこのことを悟られないようにしようとだけ決意した。
 それからしばらく、私は彼氏を作る努力をやめた。アズミに彼女がいないなら、そんなもの必要なかったからだ。アズミとは平均して月に一回程度飲みに出かけた。いつものことながら大した話をするわけではない。ただ、アズミが私のなんでもない話に「ケイちゃんらしい」と返す度、私は自分の生き方に確信を持った。何でもできる気がしたし、実際なんでもできた。勉強も運動も見た目もそれ以外の何もかもにおいて、私は今の私が好きだった。正確には、アズミが今の私を屈託なく好きでいてくれたから、私はそれを信じただけだ。
 アズミの前で、私は正真正銘無敵の女だった。
「この間話したバイト先の人のこと覚えてる?」
 ある夜、アズミがそう言った。私はイカの造りに箸をのばしていた。
「結局付き合うことになってさ」
「へーおめでと」
 もちろん私は動じなかった。動じる理由がなかった。
 アズミと駅で別れてから、電車に揺られつつ私は知り合いの中から『私』が好きになるべき人を探した。基本的な社会性を身に着けており、彼女の男友達とその彼女とも仲良くできるような社交的な性格で、私の生活や価値観に過度な干渉をしてこない人間。インドアよりアウトドア派な人間ならなおよい。
 私はつつがなく恋に落ち、次の週には彼氏ができた。

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「すごいね」と言われることがよくある。
 本気でそう思ってくれていることもあるし、「理解ができない」という感情をオブラートに包んだ結果その言葉になっていることもある。どちらかといえば後者の頻度の方が高い。
 私は中学一年のあの夜から、『私』になるための努力を惜しんだことはなかったが、それが他人の目には時に苛烈な振る舞いのように映るようだった。
 私は元の自分が何も持っていないことを知っていた。頭もよくなければ顔もぱっとせず、運動もできなければコミュニケーション能力も欠如していた。あらゆる分野で『私』に到らない自分をそこに到らしめるためには、一分一秒も無駄にはできない。さらに言うと、私は高校を卒業した時点で家からの支援をすべて断っていたので、お金も常になかった。
 私はアルバイトに明け暮れ、空いている時間で必死に勉強をした。三百円で使える公営のジムに週四回通った。留学生をつかまえて英会話を教えてもらい、知識の足りない分野に気づくとすぐに図書館に足を運んだ。試験前には研究室の前に張り込んで先生を質問攻めにした。
 分からない、ということが嫌だった。できない自分を許せなかった。私は、誰よりも強くなりたかった。たったひとりで生きていけるほど強く。
 そんな調子だったから、友達は少なかった。少ないというか、ほぼいない。関わらざるを得ないときはそれなりに社会性のあるやりとりを心がけたが、一緒に遊びに行ったりお喋りに興じたりする相手はアズミ以外いなかった。単純に、そこに割く時間がなかったのだ。
 私は大学院に進学した。研究室では私の体力と労を惜しまない性質が重宝された。研究は面白かったが収入面を考慮して迷わず就職を選択した。メーカーの研究職とベンチャーとで迷い、結局ベンチャーに入社した。
「すごいね」と言われる度、私はにっこり笑ってみせる。それが単純な褒め言葉であっても、軽い嫌味であっても、いずれにせよ私が作り上げた『私』の完成度の高さを証明しているにすぎないからだ。そういう態度のせいで、学校でも会社でも私は一部の人間に毛嫌いされた。私の『私』に対する自信が彼らの目には不遜に映るらしい。
 しかし私は、まったくの正直な気持ちとして、心の底から、他人からの評価はひとつも気にならない。気にしたこともない。誰にどう思われていようが、私はただやるべきことをやり、言うべきことを言った。正確には、私は『私』がやるべきことを知っており、『私』が言うべきことを知っていたので、私はただ『私』であっただけだ。そして私は、『私』である限り無敵だった。
 アズミ。アズミだけが私を支えていた。そのことに私は気づいていた。私は無敵だったが、アズミがいなくなったら私は多分死んでしまうだろうと思った。そういう生き方を私はかつて選びとり、そして十年以上もそれを愚直にこなしてきた。
 正直に言うと、もはや私は私と『私』の区別がついていない。当初は確かにあったはずの『私』と私自身の間にある距離は、十数年の間に徐々に縮んで消えてしまった。今、私という影はほぼ完全に『私』と重なっている。
 ひとりで生きていくなんて嘘だ。
 私は無敵ではない。

    ▼

 五人目の恋人はすぐにアズミに紹介した。反対に、アズミの彼女も紹介してもらった。
 恋人はカメラが趣味だったので、週末には東京近郊の山や湖に出かけることが多かった。私はそれについていき、ついでのようにアズミとアズミの彼女にも声をかけた。恋人の案内で、私達は何度も一緒に山を登り、滝を見上げ、息を飲むような星空の下でコーヒーを飲んだ。
 妹のようだった元彼女と違って、今度の彼女はアズミよりもしっかりしたタイプで、どちらかというとアズミというより私に似た人種だった。四人でよく遊ぶようになってからも彼女は私と個人的に仲良くなるという感じではなく、あくまで彼氏の幼馴染に対する態度を崩さなかった。私としてもその方が都合がよく、むしろ理屈で話ができそうなところに好感を抱いた。
 アズミと彼女はいつ見ても仲睦まじく、私はそれを眺めているのが好きだった。アズミはいくつになっても屈託のなさという美徳を失っていなかったが、同時に意外と気遣いのできるタイプでもあったので、彼女といるときに無闇に私を褒めたりはしなかった。むしろいつも彼女を気遣い、彼女をいたわった。私にとってもその方がよかった。私が欲しかったものは、そういうものではないから。
 何もかもうまくいっている……と思っていたが、二年ほどして私は恋人と別れた。恋人には最後までごまかしたが、決定的な理由は恋人がアズミたちと一緒にどこかへ行くことを嫌がるようになったからだ。ふたりでいたいから、と恋人は言っていたが、もしかしたら私のアズミに対する感情に何かしらひっかかるものを感じたのかもしれない。
 何度かモメた後に、結婚も視野にいれている、と恋人は言った。私はそれを利用した。結婚する気はない、と言って別れる方向に持っていった。それも嘘ではない。五人目の恋人がどうとかいう問題ではなく、私はこの先もずっと結婚なんてする気はなかった。
 私はひとりで生きていくのだ。誰かと手と手を取り合って生きていくなんて死んでもごめんだった。自分が家族という小さなコミュニティに押し込まれるのだと思うと息が詰まるような気持ちがする。もしそんな状況になったら、私は無敵の私ではなく、かつての何の力もない自分に戻ってしまう。……そんな、根拠のない恐怖を感じていた。
 お互いのためでもある、と言って首尾よく恋人とは別れられたが、それはそれで私はすっかり困ってしまった。
 五人目の恋人に言われてハッとしたが、確かに付き合った先に結婚が見えてくる年齢になっていた。まだ新社会人になって一年目だったので、付き合うことがイコール結婚になるわけではないが、まともな人間なら多少なりとも意識する年齢ではあるだろう。結婚する気などさらさらないのに、アズミと対等に会うための道具として、結婚まで考えてくれる人を利用するというのはさすがの私も躊躇した。
 そもそもこの方法をずっと続けるとするならば、一生誰とも結婚しないというのは無理がある。アズミに結婚願望があることを私は知っていた。家族なんてものに二度と所属したくないという方向に行った私とは反対に、アズミはむしろ理想の家族を自分の手で作りたいという願望を持っていたのだ。将来的にアズミが結婚した場合、アズミと同じ位置に立つには私も結婚するしかない。
 嫌悪感や罪悪感には目をつぶり、割り切って都合のいい相手と結婚してしまうか、はたまた今のようなアズミとの関係を諦めるか、私は深刻に考えた。考えに考えに考えたが、めずらしくなかなか結論がでなかった。無敵の女にも弱点はある。どちらの選択も私には苦痛だった。
 悩むのにも疲れて、どこかにすべてを理解した上で私に協力してくれる都合のいい人間はいないだろうかなんて夢みたいなことまで思った。
 溝口に出会ったのは、ちょうどそんなときだ。

    ▼

 溝口は会社で私の教育係をしていた先輩の、研究室時代の後輩に当たる。先輩について参加した学会の会場で出会った。
 紹介された段階で「こいつは女癖が悪いから注意するように」と申し伝えられており、目の前ではっきりそんなことを言われているにも関わらず当の本人は気にする様子もなくヘラヘラしていた。メーカーセッションで発表しているところも見たが、お偉い先生を前にしたときですらヘラヘラしていたので、おそらくいついかなる時もヘラヘラしている人なのだろうと思った。実際それは合っていたのだが。
 会社が違うにも関わらず、溝口は何故かその後の飲み会にも現れた。どうやらうちの会社の人間はみんな彼のことを知っているらしく、当然のように受け入れられ、当然のように一緒に店に入り、当然のように私の隣の席に座ろうとするのを先輩に阻止されてしぶしぶ正面の席に座った。
 気をつけたほうがいいよ、と先輩は再度私に忠告した。
 熱心に好きだって言われても信じちゃだめだよ。そうやって熱烈に口説いておいて、いざ付き合いだしたらすぐに捨てるんだから。いっつもそのパターン。何人泣かせてきたことか。
「いやだなあ、それは全部結果論じゃないですか。私はただ自分に正直に生きているだけですよ。好きになったら好きだと言うし、好きじゃなくなったら好きじゃなくなったと言うだけです。好きじゃなくなったのに惰性で付き合う方が残酷じゃないですか? 好みがちょっと特殊なだけで、むしろ自分は誠実な人間だと思ってるんですが」
 いつまでもそんなことしてたら一生結婚なんてできないよ。先輩は言った。
「一生結婚する気はないのでご心配なく」
 溝口は笑いながら店員から二杯目のビールを受け取った。相変わらずヘラヘラしている。実際のところは知らないが、おそらくこの男は彼女に別れを告げる時ですらヘラヘラしているのだろうと思った。それがとてもよかった。いい点はいろいろあったが、相手に対する罪悪感を持ち合わせていないところが特にいい。
「特殊な好みって?」
 私は尋ねた。
「私のことを好きじゃない人が好きなんです」
 ヘラヘラしたまま、溝口は答えた。
 帰り際、先輩に隠れて連絡先を交換した。家に帰ってすぐ連絡をとり、次の約束を取り付け、翌週末に待ち合わせた居酒屋で、私はアズミとのことを洗いざらい話した。
 大切な人がいること。その人の幸福を壊すことなく同じ立ち位置で傍にいたいこと。そのために私にも恋人が必要なこと。
 溝口はやっぱりヘラヘラした表情で私の話を聞き、一通り聞き終わると「なるほど」と呟いた。そして、いくつか私に質問を投げかけた。
「『かっこいい』女の定義は?」
 明確な定義はない。正確にはアズミがかっこいいと感じる生き様のことであり、それはもしかしたらアズミ自身も認識していないものかもしれないが、私は長年の付き合いで何をどうすればアズミに尊敬されるかが手に取るように分かるので、それをかっこいい女としている。
「他人を気にしないのなら彼女の気持ちも気にせずにアズミ君と友達付き合いすればいいのでは?」
 私はいいがアズミが困る。アズミには幸せになってもらいたい。できればいい人と結婚し子供を授かって温かい家庭を築いてほしい。私はよき友人としてそれを見守っていたい。
「結婚し、子供を授かり、温かい家庭を築くことが幸せなんですか? 友人のそれは願うが自分はそうならなくていいというのは、自己犠牲的な発想?」
 幸せは個々人で違う。私の幸せは私が決めるし、もちろんアズミの幸せはアズミが決める。アズミが温かい家庭を昔から願っているということを知っているから私はその成就を願っているだけで、私の幸せとアズミの幸せが二者択一になっているなどと思っているわけではない。私は私で、ひとりで生きることが幸福なので、自己犠牲というよりむしろ両者の幸福を願っている。
「ひとりで生きるなんてそもそも無理じゃないですか? 家だって服だって、目の前にあるこの串焼き盛り合わせだって誰かが作っているものだ。人は他人がいなきゃ生きていけないと思いますが」
 人間が社会的な生き物であり、群れの中でしか生きられないということは否定しない。ここで言う「ひとり」はある特定の人間に対する精神的な依存についての話をしている。山奥で自給自足を目指しているわけではない。
「『特定の人間に対する精神的な依存』」
 私の言葉をそっくり繰り返して、溝口は考え込むような顔をした。相変わらずヘラヘラはしていたが、いつもより幾分か真剣そうに見えなくもない顔だった。
「嫌いなの。誰かがいなければ自分として生きていけない状態が。私は、私だけで完結する独立した一個の個体でありたい」
「精神的に」
「そう、精神的に」
 なるほど、と溝口は言った。何がなるほどなのかはよく分からなかったが。
「それで、私にどうしてほしいんですか?」
「私のことを好きになってほしい」
「なぜ?」
「都合がいいから。あなたが私を好きになっても、私があなたを好きになることはない。あなたはそういう人が好きなんでしょう? あなたが私を好きになれば、あなたはずっと好きな人の傍にいられるし、私はなんの罪悪感も持たずにアズミと同じ位置に立てる」
 なるほど。溝口はまた呟いた。その顔には相変わらずヘラヘラと軽薄な笑みが浮かんでおり、本心で何を思っているのかはまったく読みとれなかった。出会ってから今までも、そして多分これから先もそういう男だ。きっと、いついかなる時にどんな言葉を吐いても信用されない宿命を背負っているのだろう。
 タバコを吸ってくる、と言って溝口は席を立った。溝口がタバコを吸うことをそこで初めて知った。ハイボールの泡が音もなく水面へ昇るのを見つめながら、私は心底馬鹿らしい気持ちになった。
 溝口のことではない。自分自身が馬鹿らしくて仕方がなかったのだ。私だけで完結する一個の個体でありたいとのたまう『私』は、アズミの存在に支えられている。自己矛盾もいいところで、よくもまああんなに堂々とそれらしいことを言えるものだ。
 ひとりで生きていくなんてそもそも無理、と溝口は言った。
 そうかもしれない。いやきっと、多分、そうなんだろう。
「いいですよ」
 溝口が戻ってきて、開口一番そう言った。
「好きになれるか試してみます。なんだか面白そうなので」
 そうやって、六人目の恋人ができた。

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 アズミとアズミの彼女と、私と私の彼氏。
 私とアズミを中心にして表現すると、まるで大昔から同じ四人組で仲良くしているような気がするが、役割が同じというだけで中の人間は変わっている。
 溝口は、思っていたよりもずっと自然に私とアズミとその彼女の輪に馴染んだ。溝口は五人目の恋人のように小旅行をする趣味は持っていなかったが、その代わり飲みに行くのがとにかく好きで、東京中のおいしい飲み屋に精通していた。一ヶ月もすると、私がアズミたちに声をかけなくても溝口から直接声をかけるようになっており、さらに半年も経つと私の知らないところでアズミとサシ飲みに出かけている始末だった。
 一年も経つ頃には、毎月の定例のように飲み屋に集まるのが習慣になっていた。私達は仕事の愚痴を言い合い、職場のおかしな人の話で笑い、お金がほしいと嘆いては酒を煽った。
 大昔からそうだったかのような四人組。思惑も疑いもない安定した二人と二人の関係。私がほしかったもの。
「よかった」
 ある夜、アズミがそう言った。ハイペースで飲む割に酒に強いわけでもないアズミは、二杯程度ですぐ顔を真っ赤にする。
 テーブルには二人しかいなかった。私とアズミ。溝口は仕事の電話がかかってきて店外に出ており、アズミの彼女はお手洗いに立っていた。
「何が?」
「なんかよくない? 俺にもさ、ケイちゃんにもさ、大事な人がいてさ、みんなで仲良くてさ」
「そうだね」
「ケイちゃんには幸せになってもらいたい」
「何、突然」
「突然じゃないよ。中学のころからずっとそう思ってる」
 アズミは頬杖をついて目を閉じていた。老けたな、と思った。当たり前だ。中学生と比べたら誰だって老ける。目をつぶったままアズミが続ける。
「まあケイちゃんは、俺が何を思ったって勝手に生きてくんだろうけど」
「そうだね」
 そうだよ。私はアズミとは関係のないところで、私の力で勝手に生きていくんだよ。アズミの前ではそういう人間でありたいとあの夜に思ったから、この先も私はずっとそうして生きていくんだよ。
 それが私なんだよ。
「結婚することになった」
 アズミにそう言われても、もちろん私は動じなかった。動じる理由がないから。
「なんでそんな他人事みたいに言うの」
「実感がわかないからだよ〜。いや、そうしようって言ったのは俺なんだけど、でもまさかホントにそうなるなんて思ってなくて……」
「意味分からんが」
「分かって!」
「まあとにかく、おめでとう。式はいつ?」
「今んとこ来年の冬かなーって話してる」
 アズミの彼女がお手洗いから戻ってきて、三人でその話で盛り上がった。さらにその後から話に加わった溝口は「俺がいるときに言ってよ」と文句を言った。私の祝福が足りなかったんじゃないかと思ってしまうほど、溝口は大げさにふたりにお祝いを述べた。アズミは終始、照れくさそうにしていた。
 いつものようにひとしきり飲んで騒いで、駅の改札の前でアズミと彼女とは別れた。アズミとアズミの彼女は一緒に暮らしているので、どこで飲んでも二人は一緒に帰っていく。一方私は、溝口と一緒に暮らしているわけではなかったが、最寄りの路線が同じなので帰る時は大体溝口と一緒になる。
 金曜のホームは適度な喧騒に包まれていた。前に並んだサラリーマン二人はごきげんな様子で野球の贔屓チームの話をしているし、後ろの学生らしきカップルは最近炎上した配信者の話をしている。私は酔っているし、溝口ももちろん酔っている。そうだ、とふと私は思い出す。
「ものは相談なんだけど」
「うん」
「私と結婚しない?」
「すげープロポーズ」
 もちろんこれは、溝口のことが結婚したいほど好きだから言っているわけではない。まして、結婚に精神的な何かを求めて言っているわけでもない。
 アズミが結婚するからだ。溝口ももちろんそんなことは分かっている。
「ブレないねえ」
 半分呆れたような、もう半分で面白がっているような声だった。
 付き合って一年以上が経つが、溝口が首尾よく私のことを好きになったかどうかは不明だった。溝口も言わないし私も聞かない。仮にそうなっていたとして、既に付き合っている状態なのだから改めてそれを確認したところで「そうですか」で終わってしまうので敢えて聞く意味もない。
 ただ、一年以上経っても溝口から終わりを告げられないということは、この男もそれなりにこの関係から得ているものがあるのだろう。それが私自身に対する好意なのか、珍獣を観察したいと思うような好奇心なのか、あるいは都合のいい飲み友達が三人も維持できることなのかは不明だが。
「まあ、考えとくよ」
 溝口が言った。ありがたいなと私は思った。少なくとも一考の余地はあるということだから。
 どういう理由で付き合ってくれているのかは判然としないが、私達が結婚するにしてもしないにしても、少なくとももうしばらくは四人の関係を続けられそうだった。
 溝口さえよければ、私はこのままずっと付き合っていたかった。
 この先もずっと、この四人で。

    ▼

 そんな私の願いと裏腹に、それから二ヶ月で私達の関係は終わりを告げた。
 崩壊は、思ってもみない方向から起こった。いや、そういうことも当然起こりうるということは頭では理解していたと思うのだが、私は無意識にそのケースを除外していたのだ。
 穏やかで安定した二人と二人の関係。それが終わるのは、私の方からだとばかり思っていた。つまり、溝口の協力を得られなくなった場合のみだと。
「別れた」
 アズミは静かにそう言った。
 私だけに送られたメッセージで、待ち合わせた居酒屋で。
 いつか同じようなことがあったな、と私はぼんやりと思った。

    ▼

「どうしてうまくいかないんだろう」
 私は何も言わなかった。何かを言って欲しいわけではないということが分かっていたから。
「俺さ、ケンカができないんだよ。ケンカっていうか……怒ってる女の人を見ると逃げ出したくなる。怒ってるって言っても、叫んだりものを投げたりしてるわけじゃないよ。そのもっと手前。声を荒げてすらいなくて、話し合いをしたいって言われてる段階でもう逃げたくなる。ていうか実際逃げてる。気がつくと外にいるから。……頑張ってたつもりなんだけどまたやっちゃってさあ。やっぱり結婚は無理って言われちゃった。そりゃそうだよね。大事な話に限って向き合ってくれない相手と結婚なんてできないよ。俺でもそう思う」
 初めて聞く話だった。初めて聞く話だが、境遇を知っているとそう驚くような内容ではなかった。さらに言うと、私は今まで付き合った恋人の誰一人として正面から向き合ったことがなく、溝口についても一度たりとも向き合わないまま結婚を持ちかけているので、アズミもその彼女も本当にまっとうな人間なのだといたく感心した。
 ただ、それはそれとしてアズミの感じている痛みは真に迫って伝わってくる。いつもよく笑うアズミが泣きそうな顔をしているのを見て、私の心まで痛くなってきた。
「前の彼女とも同じ理由で別れた。……彼女に他に好きな人ができたっていうのが直接の原因だけど、俺が逃げたときに相談してた相手を好きになっちゃったって言ってたから、多分根本的には同じ理由なんだと思う」
 そうなんだ、と私は言った。うん、とアズミは頷いた。頷いて、目の前にあったおしぼりを握りしめた。運ばれてきてから一口も飲まれることなく同じ場所にあるビールは、泡がしぼんでまずそうに見える。
 知らなかったな、と私は思う。アズミは私の知らないところで、勝手に幸せになっているものだとばかり思っていた。私達は親友だったが、心の何もかもをさらけ出すような類の友達ではなかった。おそらく私達にとって最も困難な時代であった中学生のときですら、私達は自分の直面している問題を赤裸々に開示するようなことはなかった。お互いに心を開いていなかったからじゃない。むしろ言わずとも信頼し合っていたから黙っていたのだ。私達は、傷を見せあって舐め合うことよりも、無言のまま背中合わせに戦うことを選んだ。相手の敵は見えずとも、同じ場所で同じように戦っていることを知っていた。
 多分、私達は分かっていたのだと思う。無意識のうちに理解していた。結局は、自分で戦うしかないということを。誰かに背負わせることはできないということを。そしてそれは私達の、暗黙のうちに共有している矜持でもあった。
「……どうしたらいいと思う?」
 でも今、そのアズミが、私に心の弱った部分をさらけ出している。
 その事実に、私の中の変な部分がうずいている。戸惑い、とも言える。緊張、とも言える。不安、とも言えそうだ。しかしまた同時に、喜び、とも表現しうるその感情は、私を大いに動揺させる。
 どうして、と思う。
 そんなものを、求めていたわけじゃなかったのに。
「よりを戻したいってこと?」
「違う……彼女のことはもういい。いいっていうか、これ以上困らせたくない」
「誰かと結婚したいって話なら、アズミの性質も受け入れられるって人はいると思うよ。むしろ何か抱えてる男の方が支えてあげたくなるって女は結構いる……」
「そうじゃなくて」
 喉をつまらせたような声でアズミが言う。額に片手を添えて、うなだれる。
「自分を、変えたい。もう嫌なんだ」
 どうして。
 その言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。どうして。どうして私は今、嬉しくなっているんだろう。アズミが弱っているのにどうして。いや、弱っているからこそ。私を頼っているからこそ。自分の直面する困難に対して、一緒に戦ってくれと言われているようで、私はそれが信じられなくて、戸惑って、不安になって、でも同時に……とても嬉しい。
 とても嬉しい、と、思ってしまう。
「……殺すしかない」
「……え?」
「自分を変えるには、自分を殺すしかない。いるべきじゃない自分を殺して、あるべき自分に生まれ変わらせる。それを何度も繰り返す。何十回でも、何百回でも……何千回でも繰り返して、殺すことすら意識しなくなったころに、あるべき自分が自分になってる」
 アズミが驚いた顔で私を見ている。私はなぜか、胸の奥が引き絞られたかのように痛くなって、それをごまかすために笑う。
「そうしたら変わるよ」
 そうやって、私は『私』になった。
 私達はわずかの間見つめ合った。遠くで店員が予約客を案内する声が聞こえた。
「やっぱ、ケイちゃんはかっこいいな」
「そう?」
「そうだよ。なんか自分が恥ずかしくなるもん」
「比べることじゃないでしょ」
「そうだけど……いつも考えがはっきりしててさ、自分を強く持ってて、進むべき道が分かってるっていうか……今の自分を殺すって言われても、俺はそれができないから困ってるんだけど、ケイちゃんはそうすべきだと思ったら本当にそうするんだろうなって……」
 突然言葉が途切れた。アズミは片手で目元を隠したまま、あえぐように何度か口を開閉させる。私の胸はますます痛くなる。
「ケイちゃんと……ってたら……った」
「え?」
「ケイちゃんと……付き合ってたら、よかったな……って」
 アズミが泣いている。私の前で、アズミが泣いている。中学生のとき、母親のせいで顔に怪我をしていたときですら笑っていたアズミが。
 胸が、と私は思う。
 胸が痛い。
「絶対、信じてもらえないと、思うけど……」
 ぐしゃぐしゃに泣きながら、アズミが私を見る。望んでなかった。こんなこと、少しも望んでなかった……のに、どうして私の心臓は高鳴っているんだろう? まるで期待するみたいに。まるで、ずっと望んでいた言葉を待つみたいに。
「ずっと好きだった」
 どうして、私は……。

    ▼

「うわヒデー顔」
 顔を合わせるなりそう言って、溝口はズカズカと部屋に入ってきた。相変わらずヘラヘラとした表情にバカにされているような気になるが、おそらく本人にはそんな気すらなく、いつも通りの顔をしているだけなのだろう。
「何しにきたの」
「酒買ってきた」
 そう言って、勝手に発泡酒や酎ハイの缶を机に並べ始める。ついでにコンビニの惣菜やジャーキー、チータラなどなどおつまみも万全だ。
 なぜか……本当になぜか分からないが溝口は私とアズミが二人で会うことを知っており、何の話だったのかわざわざ電話をかけてまで私に聞いてきた。隠すことでもないので端的に概要を説明すると、今からそっち行くわと言って一方的に通話を切られたのだ。私が明らかに泣きながら喋っていたのが悪かったのかもしれない。
「こういうときは飲むのが一番」
「アンタと一緒にしないでよ」
「なんで振ったの?」
 見たところ一缶だけしかないプレミアムモルツのプルタブを、軽快な音を鳴らしつつ開けながら溝口が言う。
「付き合えばよかったのに」
「付き合うわけない」
「なんで?」
「アズミが好きな『私』はあそこで『私も好きだった』とは言わない。私がそれを言わないことを分かっててアズミは言った」
「そうなの? アズミ君がそう言ったわけじゃないんでしょ?」
「言ってなくても私には分かる」
「なるほど」
「私は『私』がどうすべきなのかが分かってるし、たとえ何があってもそれに反することはしない。今までも、これから先も」
「じゃあなんで泣いてるの?」
 鼻をかみすぎて鼻の下が痛い。ずっと泣いているせいで目が腫れて視界が狭い気がするし、頭に熱がこもったようになってぼんやりする。溝口が開口一番に言った通り、相当ひどい顔をしているのだろうが、アズミ以外の誰に見られて何を思われても関係ないと思っているのでその点は気にしていない。涙が流れ始めたのは、改札前でアズミと別れた後からだ。
「多分、私の中に残った私が泣いてるんだと思う」
「なにそれ」
「今の私になる前の私は……好きだったんだと思う。アズミのことを」
 言葉にしたら感情が溢れて、また一層涙がこぼれてきた。
 アズミを好きだった私は、アズミを好きだったからこそ『私』を作り上げた。元々あった自分を何度も殺して、新しい『私』に成り代わった。そうして私と区別がつかないくらい重なりあった『私』は、アズミを好きではない。アズミがかっこいいと思う無敵の女は、アズミに好きだと言われてもアズミを好きとは言わない。
 申し訳ないが今もこの先もアズミと付き合うことはないと思う、例え私が誰とも付き合ってなかったとしても。そう言った私に対し「やっぱり」とアズミは泣きながら笑った。
「ケイちゃんらしいね」と言って。
 溝口は黙っていた。私はしばらく何もせずぼーっとしていた。何かを考えることが億劫だった。
 何か飲んだほうがいいよ、と溝口が言って、多分それは酒のことを言っていたと思うが、冷蔵庫からお茶を出して一気に飲んだ。
 二杯目をコップに注いで元の場所に座ったが、水分を摂取したせいか尚一層涙が溢れてくる。悲しいわけではない。それは本心だったが、痛みを感じているのもまた事実ではあった。
 何日くらいかかるだろう、と私は考えた。でもきっと、私は……。
「あのさあ」
 溝口がジャーキーをつまみながら言った。
「結婚する?」
「……なんで?」
「そっちが言ってきたじゃん。こないだ」
「ああ……」
 そういえばそんなこともあった。
「するわけないでしょ。アズミの結婚がなくなったのに」
「ま、そうだよね」
「もし」
 急に頭が働いて、私は顔を上げてまっすぐ溝口を見た。その瞬間涙は止まった。
「もし万が一、泣いている私を見て助けたいとか救いたいとかバカなことを思ってそれを言ったとしたら、余計なお世話だから二度と言わないで。私は誰にも助けられたくないし、助けられる筋合いもない」
 何日かはかかるだろう。でもきっと、最終的に私は必ず回復するだろう。自らの力と、自らの意思によって。なぜなら私は、無敵の女だからだ。
 溝口は私の言葉を聞くと、泣き笑いのような、変な感じに顔を歪めた。うー、と唸って、そして絞りだすように言う。
「すげー好きだわ、アンタのこと」
 ああ、とそこで私は悟った。溝口もまたそうなのだ。
「私はあなたを好きではないし、この先好きになることもない」
 そうだろうね、と溝口は言って、またいつものヘラヘラした顔に戻った。
 私達は同じだ。
 私もアズミも溝口も、みんな同じだ。私達はみんな、どうしようもないものに恋い焦がれている。けして手に入らないものを、手に入らないからこそ愛し続けている。そして、その地獄に酔いしれている。
 不幸だろうか? 不幸かもしれない。他人から見たらただただ滑稽なのかもしれない。めんどくさいヤツらが自縄自縛して遊んでいるだけに見えるかもしれない。
 でも、どうだっていいのだそんなこと。他人にどう思われていても私は気にしない。
 なぜなら私は無敵の女で、そんな自分を……そうなった自分を、私は結構、気に入っているのだから。

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 どうしようもない恋の話をさせてほしい。
 つまり私達の恋の話を。
 そういう風にしか生きられない、愚か者どもの話を。

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 ときどき、死ぬ時のことを考える。
 きっと私はひとりだろう。物理的には、傍に誰かがいるかもしれない。医者の先生がいるかもしれない。看護師がいるかもしれない。ひょっとすると溝口や他の人間と結婚して、たまたま死ぬ瞬間も近くにいるかもしれない。
 でも、どんな場合だとしても、私の心はひとりだろう。そうやって生きることを昔に決めて、ずっとそうやって生きてきた。これから先もそうだろうし、だから死ぬ瞬間もそうなんだと思う。
 寂しい思いもするだろう。歳をとって身体が言うことをきかなくなったり、病気になったりしたらますますそう思うだろう。家族に支えられている人を見て、羨ましくなることもあるかもしれない。手に手を取り合って歩く夫婦に劣等感を抱くこともあるかもしれない。
 そんな私を他人は笑うかもしれない。幾人もの恋人たちを都合のいい道具扱いしてきた報いだと言う人もいるかもしれない。他人の忠告を聞かなかった馬鹿なヤツだと冷笑する人もいるかもしれない。
 けれども私の想像の中で、死ぬ瞬間の私はいつも笑っている。
 想像の中で、死にかけの私はなぜか夜の公園にいる。何度もアズミと落ち合ったあの公園で、私はひとり地面に横たわっている。そこにはもう誰もいない。アズミの姿もない。街灯の白い光の中で滑り台は冷たく輝き、ブランコは音もなく揺れている。
 私は私として生き、そのまま私として死ねるのならば、それがどんな地獄であっても受け入れる。痛みと苦しみと孤独の中にあっても、私が私であるかぎり、私はきっと笑うだろう。素直な気持ちで偽りなく、心の底から笑うだろう。
 かつてアズミと見上げた星空の下で、私は静かに目を閉じる。


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