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【短編小説】いきちがい 富喜ちひろ

いきちがい
                        富喜ちひろ



 夜中に少し腹が減ったからと言って、近くのコンビニに行ったのが間違いだった。大人しく寝ていれば良かった。しかし、今更後悔しても遅い。

 私は横断歩道に倒れている自分を見下ろしていた。
 少し離れたところには、派手にブレーキ痕を残した水色の軽自動車が止まっている。倒れている自分を見下ろしていると、軽自動車から人が降りてきた。同い年くらいの女性だった。小さな子供を連れ、倒れている私を見ると両手で顔を覆い膝から崩れ落ちた。この状況から考えて、多分私は死んだのだろう。それが妥当だと妙に納得する。そうでなきゃ、自分を外から見る事なんて一生出来ない。その『一生』がいまどうやら終わったようだ。

 就職と共に上京し早八年、食品会社の事務として働いてきた。就職してから変わらぬワンルームに住み続け、休みの日は動画を見て過ごす。振り返ってみれば生活の大半を液晶を見て過ごしていた人生だった気がする。『江崎絵美、享年三十歳』というところか。

 私はふと、車に跳ねられる直前に見ていたインスタグラムの投稿を思い出していた。「やりたいことをやって生きていく」そう投稿していたのは、最近すっかり音沙汰の無くなった高校の同級生だ。そのメッセージの意味が今、少しずつ染みてくる。本当にその通りだ。誰しも、明日死ぬかも分からないのだ。そして、その明日が私の場合は今日だったらしい。いつも楽しそうにタワーマンションで繰り広げられていた交流会や、その写真と共に投稿される熱いメッセージが、人生の最後にこんなに意味を感じさせる力を持っていたなんて。「どうせレンタルスペースだろうが」とか毒づいて本当にごめん。もう、その言葉も今となっては届かない。

 ……さあ、これからどうしようか。
 
 上司から急かされている未完成の資料も、金の貸し借りで揉めている恋人とも、もう関係ないのか。勝手にこれから先どうにかなっていくのだろう。物寂しい安堵が胸の中に広がる。細かいことを気にせずに、この際自分の好き勝手に生きていれば良かった。こんなにも生涯が短いのなら。元来の気の弱さから請け負った数々の面倒を思い返す。
 気が付くと、倒れた自分の周りには数名の人だかりが出来始めていた。なんとなく騒然としてきたその道路から、私はそっと立ち去った。

 自分が跳ねられた横断歩道から北に5分ほど進むと、駅前のロータリーにたどり着いた。今日は金曜日の夜という事もあり、赤鬼のような顔をしたサラリーマン達が歩いている。やはりこのような状況だと、生きている人とぶつかっても身体をすり抜けてしまう。これは想像通りだった。スクランブル交差点にこの状態で行ったら相当早く渡れるな、などと考えながら進んでいくと、思いっきり何かにぶつかった。大きく体勢を崩し、派手に転倒する。無いはずの脳が軽い震盪をおこす。

「すみません!大丈夫ですか?!」

 二〇代半ばと思わしきスーツを着た青年が焦った様子で私を覗き込む。

「だ、大丈夫です……」

 右肩を抑えながらよろよろと立ち上がる。

「あの、これはどういう……」

「すみません。俺、まだこの状況に慣れてなくて……。けど、同じような人が居るって分かって少し安心しました」

 爽やかな笑顔で青年が微笑む。なんだコイツ。呆然と青年の顔を眺める。
 言葉が出てこない間抜け面の私を前に、青年の笑顔も徐々に消え、痺れを切らした様に視線を逸らされた。

「ああ、まだ電車動かないのか……」

 青年は駅の電光掲示板を気にしているようだった。JR山手線が人身事故で運転を見合わせている旨が赤く表示されている。

「え、もしかして......あなた、ですか?」

 恐る恐る聞いてみる。

「あ、そうなんすよ。俺、酔っ払ってホームから落ちたみたいで。こういう状態になって、始めの何分かは動揺したっすけど、今さら大騒ぎしても遅いなって気が付いて」

 妙に悟った顔をしている。

「そ、そうでしたか……大変でしたね。実は私もさっき車に跳ねられてしまって」

「え、さっきっすか?じゃあ、俺ら同期みたいなもんっすね。よかった~仲間がいて!」

 笑顔で青年が語りかける。普段なら全く関わりを持つことのないタイプの人間なうえに、若干接し方に気になる点はあるものの、この心細い状況に仲間が居てくれるだけで少し安心できる。幽体離脱になったことで、こんな出合いがあるとは。

「ところで、これからどうします?なんか、どうしたらいいか分かんないっすよね」

 確かにそうだ。これからあの世に行くための何かしらのガイダンスがあるのだろうか。あの世へ行くにあたって、どのような手続きを踏み、どこからあの世に行くのか。教えてもらえないと非常に困る。死んだタイミングが悪いと、承認が滞ってそのようなお知らせも遅れてしまうのだろうか。

「まあ、この状況じゃあ何にも出来そうにないし、ちょっと休憩しますか」

「そうですよね……」

「せっかく飛べるみたいだし、あそことかどうっすか」

 二軒目を誘うようなテンションで青年が指さしたのは、古い雑居ビルだった。十階建てくらいだろうか。私は青年の後に付いて、雑居ビルの屋上を目指して浮上していく。街のネオンが少しずつ小さくなる。雑多に見えていた街も、上から見ればきちんとした格子状に道路が張り巡らされ、色とりどりのネオンが輝いている。

「おー凄いっすね!すげーインスタ映え!」

 街を見晴らす青年の横顔は月に照らされて輝いて見えた。きっと、こうして幽体離脱の身となる前は、いろんな人に愛されていたのだろうなと感じる。けど、この状況でインスタ映えは違う。

「本当、これからどうなっちゃうんでしょうね。私たち」

「そうっすね……」

 二人の間に沈黙が流れる。青年も明るく振る舞っているものの、不安なのは私と同じなのだ。先の見えない未来にどう行動していいのか分からない。

 夜空は街のネオンが反射し、ほんのりと明るさを帯びている。遠くにはたくさんのビルの灯りが見えている。この空の下に、自分たちと同じように行き場を失くした幽体離脱の人たちが何人いるんだろう。そして、この状況が俗に言う「お化け」なのだとしたらとても理不尽だ。こちとら、なんのアナウンスもなくただ彷徨っているだけの身なのに。なんだか妙に怒りが湧いてきた。もうすっかりあちら側の人間みたいだ。
 そんなことを考えながら街を見下ろしていると、青年が急に肩を叩いてきた。

「あれ!仲間じゃないっすか?!」

 青年が指さした方向に目をやると、アパートの屋根の上に体育座りをしている人が微かに見えた。いや、「幽かに」か。遠くから見るとうっすら身体が透けて見える。

「おーい。おーい。こっちだ!」

 まるで救助人を見つけたかのように、大きな声でアパートに向かって青年は声をかけている。すると、体育座りをしていた人が立ち上がった。こちらに気が付いたようだ。ゆっくりとした速度でこちらに向かってくる。

 近づいて来るにつれ、遠くの屋根の上に座っていたのは白いワンピースのような服を着た痩型のおっさんだという事が分かった。首には長い数珠のネックレスが2重3重にまかれている。

「あれ、君たちは……」

 屋根の上から近づいてきたおっさんは、驚いた様子で話しかける。

「そうなんすよ!お兄さんもそうですよね?俺はさっき線路に落ちちゃって、こっちのお姉さんは車に轢かれちゃったみたいで。今待機中っす」

「え、うそ。君たち本物?」

 この状況に偽物も本物もあるのだろうか。間近で見るおっさんは頼りなさげで髪も長く、後ろから見ると女みたいに見えた。私もおっさんに向けて一応の笑顔を作る。

「お兄さんはどうした感じっすか?」

 青年が真っ直ぐな目でおっさんに話しかける。いつでもこういう無垢な人間のガサツさが、人間関係の歯車を進めてくれる。

「俺は自分で幽体離脱したんだよ。めちゃくちゃ訓練して今日初めて出来たんだ」

「え、それってどういうことっすか」

青年と私は一瞬顔を見合わせる。

「ネットで検索すれば幽体離脱のやり方なんて今時すぐ探せるんだよ。まあ、ちゃんと練習が必要だけどね。今回はアメリカの魔女から買ったお香が効いたみたいだったなあ」

「じゃあ、お兄さんは自分で幽体離脱したってことっすか」

「そうなる」

「そんな簡単に出来るんすか」

「訓練積めばな」

 自分で幽体離脱をしたい時ってどんな時だろうか。

「また、どうして幽体離脱なんて」

 私は青年の勢いに便乗し、おっさんに尋ねた。

「本物の君たちを前にして話すのは気が引けるけど……。まあ、小さい自殺みたいなもんだな。戻れなくなる可能性がある事は知ってたから」

 おっさんはビルの上から遠くのネオンを見つめている。両腕には無数の数珠のブレスレットがはめられていた。

「あの世を少し感じられたら、もっときちんと生きていけそうな気がしたんだ」

 おっさんは、自分が長らく引き籠りをしていることなど自らぽつりぽつりと話し始めた。自分が大学卒業後の就職先でパワハラにあい、退職後はずっと引き籠って暮らしていたそうだ。

「初めっから自分の好きなようにやっていけば良かったんだけどな。訳わかんなくなる前に」

 おっさんは遠くを見つめたまま独り言のように話していた。
 どうせいつか死んでしまうのだから、私も好きなことをやっていれば良かったのだ。今更ながら、強くそう思っていた。

「まあ、いろいろあるかも知れないっすけど、細かいことは忘れて一緒に月でもみましょう!」

「そうだな。ありがとう」

 そういうと2人は並んで座り、真面目に月を見上げていた。青年は、おっさんに幽体離脱のやり方について熱心に聴いていた。最終的に『幽体離脱 やり方 絶対できる』で検索しろという話になっていた。
 

 それからしばらく三人で話をしていたが、それにしても何も起こらない。車に跳ねられてからかなり時間が経ってきたが、空は少しずつ白んできており、三人の間には退屈な空気が漂いだしていた。

「けど……本当にここに居て良いんですかね。言ってみれば私たち、自分の持ち場から離れちゃってるわけじゃないですか。これ、良いのかなって」

 私は2人に話しかける。
 決まりなど勿論知らないのだが、事故現場から離れてしまったことで、何かしらの手続きが遅れてしまう様な気がしなくも無い。

「あーまあ、そういう考えもあるっすよね」

「俺が勉強していた限りでは、幽体離脱中は悪い霊に着いて来られないようにすることが一番大事だって事くらいしか知らないな」

 そんなことはどうでもいいのだ。
 ビルの谷間には少しずつ太陽が見え始め、おっさんと青年の身体が朝日で透けてきているのが見えた。

「ああ……あの、ちょっと私事故にあった所へ戻ってみていいですか?なにか分かるかも知れないし」

「あ、そう?じゃ、気をつけてな」

「僕も駅に行ってみようかな……」

 二人はそれぞれに私に手を振り、私は二人から離れ、雑居ビルの屋上から下降して行った。

 青年と出会った駅前のロータリーを抜け、車に跳ねられた横断歩道まで行ってみる。早朝のしんとした静けさが街を包んでいた。やたらと寄り添ってうろつく男女や、シャッターに寄りかかって寝ている酔っぱらいが、少しだけ昨夜の気配を思い出させていた。

 本当にこのままあの世へ行ってしまうのかな。妙にすんなり現状を受け入れる青年、自ら半分死んだようなおっさん。そして、彷徨う私。どうしたものか。

 車に跳ねられた場所に着くと、そこはまるで事故など何も無かったかの様に綺麗に片付いた横断歩道があった。
 そしてそこには、喪服の様な黒いスーツを着た恰幅のいい女性が立っていた。

「あ、あなたここで車に跳ねられちゃった子?」

「あ、はい……」

 女性も朝日に身体が透けており、すぐに関係者であることがわかった。手には辞書の様な分厚いノートを持ち、大きな眼鏡をかけている。

「今何時か分かる?私、ここでずっと待ってました。あなた自分がどれだけ人を待たせてたか分かりますか」

「え、ごめんなさい。手続きがよく分からなくて……」

「普通、こういう時持ち場から離れちゃダメって分かるでしょ?全く、最近の人は…教育がなってない。あの世とこの世の理解について浅すぎる」

 烈火の如く怒る女性に私は叱られ、平謝りを続けていた。

「まあ、もういいです。あなたね、もう戻って良いから。はい、ここにサイン」

 女性は持っていた辞書の様なノートをめくり、サインをする様に催促した。ノートは何語なのか分からない言語でびっしりと埋め尽くされ、サインする場所だけがぽっかりと空いていた。

「あの、戻って良いというのは、どういうことなんでしょうか……」

 散々に怒られ萎縮した私は、恐る恐る話しかける。

「もう、ご自分の身体に戻って頂いて結構です」

「はあ……」

「詳細に関しては、本格的にあの世へ行く時の手続きを踏んだ後にまとめてお話しするから。こちらにも守秘義務があるので、本人と言えど公平を守るため詳細はお伝え出来ません」

「ええ、あの、私どうしたらいいんですか」

「ここにサインして。はい」

 分厚いノートを差し出される。女性の言っていることが少しも理解できなかったが、あと一つでも何か質問したらまたキレるぞと女性の顔に書いてあった。元来の気の弱さが手伝って、私は黙って頷き、訳の分からないままサインをした。

 気が付くと極彩色の海の中で私は溺れていた。身動きがうまく取れない。息が苦しい。やっぱりサインしなければ良かった。田舎から上京したての時、一番初めに出来た友達から四〇万円の美顔器を契約させられた時もそうだった。その時に、もうサインはしないって決めたのに。いや、この際そんなことはどうでも良い。とにかく、苦しい。藻掻いても藻掻いても蟻地獄に落ちていくように身体が沈んでいく。光が遠のく。そして目の前が真っ暗になった。

「……ピピッピピッピピッ」

 聞いたことのない機械音が聞こえる。
 目を開けると、青い天井が見えた。音の鳴るほうへ目をやると、長方形の機械が長細い棒に付いて赤く点滅している。

「あれ、江崎さん目え覚めました?点滴変えますよ〜」

 白衣を着た若い女性が長方形の機械を触り、液体の入った袋を取り替えている。

「ちょっとお傷見ますよ」
 
 そう言って、てきぱきと動くと私の布団を剥ぎ、足やら腕を見始めた。

 私も自分の両手を見ると、左手には点滴が刺され、右手にはいくつものガーゼが貼られていた。おまけに、右足はギプスのようなもので固定されている。意識してみると身体のあちこちが痛い。起き上がろうとすると鈍く頭痛がする。ふと、右側を見ると窓の外には太陽が昇っているのが見えた。

「あの、私……」

「あ、全然休めなかったですか?すみません、昨日夜の急患が多くてうるさかったから……」

「いや、生きてますか」

「え?」

「私、生きてるんですよね」

白衣の女性の顔がみるみるうちに曇っていく。

「はあ……」

「あ、いや。なんかすみません。大丈夫です」

「江崎さん、もう少しで朝食ですから、部屋から出たい時はナースコールして呼んでくださいね。まだ点滴もあって危ないし、怪我もあるからね」

「はい、分かりました。なんかすみません……」

 白衣の女性は笑顔を見せたが、すぐにその笑顔は消え、ガラガラと音を立てながらワゴンを押して立ち去って行った。
 
「生きてるんだ……」

 一人になった部屋で、もう一度確かめるようにつぶやく。
 胸の中に温かいものが脈々と流れているのを感じる。どうやら私は今、生きているらしい。そのことだけは理解できる。
 
 ふと、聴き慣れた着信音が鳴り床頭台の上に自分のスマホが置かれていたことに気が付く。スマホの液晶には会社の上司からと、恋人からのメッセージが残っているのが見えた。
上司から急かされている未完成の資料も、金の貸し借りで揉めている恋人とも、もう一度向き合わなければならないという事が頭の隅に浮かぶ。
 さあこれからどうしようか。
 案外、目の前には無数の選択肢が用意されていることに気が付く。途方もなく自由だ。そして予想通りになんて何一つ進まない。それを見えなくしていたのは紛れもないこの私だったかもしれない。今になって少しそれが分かる。あのビルの屋上で過ごした青年とおっさんは今頃どうしているだろうか。なんとなく、もう二度と会えないという事だけは感じる。その二人に恥ずかしくない自分で居たい。

「生きちゃってんだもんな。私」

 そうぼやき、重い腰をあげるようにナースコールを押した。

「すみません、食堂行きたいです」

『はーい、ちょっと待っててください。今行きますね』

 ナースコール越しに元気のいい声が聞こえ、私は新しい一歩を踏み出す準備を始めた。
 

 
 

 

 


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