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【テニミュ3rd】幸村精市と越前リョーマに感じる母と子の関係【全国立海後編】


 みなさんこんにちは。

 つい先日、初めてテニミュ全国立海前編をBlu-rayで見てすっかりテニミュの魅力に取り憑かれた私です。

 その後、私は速攻で後編のBlu-rayを購入。
 ヤマト運輸さんが自宅まで速攻で配達してくれたので、さっそく見て行きたいと思います。

1.第一幕と越前リョーマ

 そもそも、前編を見た段階で私は「後編、大丈夫なのか」という思いがありました。
 前編ですでに全国大会決勝戦4試合が消化され、残りは越前リョーマvs幸村精市。この1試合のみだったのです。

 すると、話の展開が「越前リョーマの記憶を取り戻す」ことが主軸に回っていくことがすぐに判明。なるほど、一幕はそこにフォーカスを当てるのかと納得します。
 今まで越前リョーマと戦ったライバルたちが総出で駆けつけ、ラリーを通してリョーマの記憶を取り戻していく。それぞれの学校の曲のメドレー、「あいつこそはテニスの王子様」の下剋上も歌い上げ、ボルテージはマックスまで高まっていく。
 真田や跡部までが力を貸し、段々と記憶を取り戻していく越前リョーマ。そして舞台は第二幕へ、ついにvs幸村です。

 さて。前回から思っていましたが、3rdの越前リョーマは本当に原作から飛び出してきたかのような容姿をしていますね。「あいつこそはテニスの王子様」の時の越前リョーマも相当に原作のリョーマくんに似ていましたが、3rdの彼は別格です。なぜなのか考えてみましたが、瞳の煌めきではないか、と考察します。
 漫画の人間の瞳は、実在する人間の瞳よりもキラキラと描かれています。有名なエピソードですが、宝塚歌劇「ベルサイユのばら」初代オスカルは、漫画の瞳の煌めきを再現するために、最も瞳に光が入りやすい客席1列目23番のあたりに目線を据えることを意識するように指導されたそうです。
 越前リョーマ役の彼の、瞳の中にライトが反射してキラキラ光る姿は、本当に漫画の中の人物のようです。

 さらに、歌声も高く「声変わり前の13歳」という出で立ち。彼は2020年の段階で19歳か20歳でしょうか。少年をとっくに超え、成人している男性の歌声にしては、本当に「声変わり前」という印象を持ちます。まさに越前リョーマ13歳、生意気盛りの少年ですね。
 役の印象は十分。歌声は高いと聞き取りやすいのですが、その分軽くなってしまいがち。特に越前リョーマの歌はコーラスが少なく、一人で歌い上げる曲が多いです。まさに主役の歌が散りばめられている。しかし、曲の壮大さと比べると歌の技術は未完成にも感じます。それを補ってあまりある「越前リョーマ」らしさ。これが2.5次元で大切にされている要素であることは間違い無いでしょう。

 どのキャラクターも、それぞれに「キャラクターらしさ」のある演技をしています。仕草や一挙一動をキャラクターに合わせることが必要なんですね。役者らしさではなく「お役らしさ」が重要視される舞台なのでしょう。

2.第二幕と決勝試合(考察多め)

 さて、第一幕ラストで競技場に辿り着いた越前リョーマと幸村精市の試合がスタートするところから二幕は始まります。「神の子」のテニスに追い詰められていく越前リョーマは、テニスの楽しさを思い出し、幸村精市に打ち勝ちます。そして、みんなで「バンザイ!」と叫んで優勝の喜びを噛み締める……というのが二幕のストーリー展開です。

 二幕における圧倒的な「幸村精市」という存在に込められた主役との対比について、本章では少し触れたいと思います。
 全国立海後編における幸村精市は、宝塚歌劇で言うところの「二番手」の役と言えるでしょう。主役を追い込んでいくいわば「悪役」です。
 しかし、幸村精市はただの悪役ではありませんよね。彼らにも彼らの歩いてきた道があり、彼らの信念がある。それを観ている側に感じさせる、感じさせなくてはならないキャラクターで、それはとても難しいお役だと思います。

 青学と立海は細かなところでそれぞれ、対になるような構図が用いられています。
 例えば、青学の部長手塚国光は父的な、男性らしさが押し出されている。反して副部長の大石秀一郎が母的な、柔和で優しげな印象です。
 立海大では反して副部長の真田に父的な要素が。そして部長の幸村に母的な要素が押し出されています。
 幸村精市を演じる役者さんのお顔は、瞳が大きく唇が厚く、柔和な女性らしい顔つき。しかし、三歩下がって手塚についていく大石とは反対に、幸村は真田に真っ向勝負を諦めさせたりと現実的にその集団を引っ張って行きます。
 さらに、手塚国光は越前リョーマに「柱」を託す。これは父から子への受け継ぎの儀式のようなものにも見えます。幸村精市と越前リョーマの対決は、「母」と「子」の戦いでもあるわけです。というのはこれは母による「支配」と子による「自立」のストーリー的な要素が含まれた試合ということです。

 そう捉えると、幸村精市のテニスのなんと「母らしい」ことでしょうか。五感の剥奪は相手を「支配する」ことに特化した技です。対する越前リョーマは、テニスへの楽しさで「支配」を脱却します。
 ここで越前リョーマの「中学生」という年齢設定も効いてきます。高校生では自立には遅すぎるし、小学生では早すぎる。人生の楽しさに目覚め、母子二人の世界から脱却する中学生の子ども。そして、その時の越前リョーマの清々しい姿。
 母から離れる時の子というものは、どこかにおびえがあります。母という安全基地から離れる離別の苦しみや悲しみ。そういった全てから解放された伸び伸びとした越前リョーマの姿は、誰しも母の子である我々観劇者に刺さり、人生のカタルシスを感じます。抑圧された殻を捨て去り、支配から、楽しく、清々しく脱却する。「テニスって楽しいじゃん!」は支配から解き放たれた人間の叫び。つまり、人生への讃歌なのです。

 そして、それと同じくして戸惑う幸村精市の姿も我々に刺さるのです。誰だって、子どもの時は伸び伸びと過ごしていた。それが、段々と社会に揉まれて天衣無縫を失っていく。
 幸村精市を通して我々が見るのは、いつか子どもだった、そして今大人になった、そんな自らの姿であるように思います。背負うものも多くなり、がんじがらめになった自分を、それでも肯定しようとして幸村精市に感情移入する。
 誰しも昔は子どもであり、そして誰しも大人になっていく。幸村精市には子どもを支配する「母」という側面だけでなく、より大きなものに支配される「大人」というキャラクター性も込められている。大人が必死になって自由に振る舞う子どもと争う姿は、過去の自分と今の自分とが戦っているかのようです。
  私たちだって自由に振る舞いたい。それを押し殺し、大切なもののために人生をかけている。だから負けるわけにはいかない。幸村精市に勝ってほしい。そんな思いが湧き起こり、いつしか越前リョーマを応援していた気持ちが幸村精市に傾いている
 天衣無縫に目覚め、伸び伸びと自由に楽しく振る舞う越前リョーマにカタルシスを感じながらも、どこか一方では「大人である自分」を象徴している幸村精市の勝ちを望んでいる自分がいる。
 越前リョーマがテニスの楽しさに目覚めても、幸村精市は戦い続ける。その姿に、観劇する大人は胸を打たれるのだと思います。

3.総評

 さて、稚拙ながらも「ミュージカル テニスの王子様 全国大会 青学vs立海」の総評を書かせていただきたいと思います。

 素晴らしいと感じた部分は、「お役らしさ」を重視する越前リョーマの配役、そして幸村精市と越前リョーマの対比です。この二点については前述させていただきました。
 少し残念に感じた部分としては、青学キャストの出番の少なさでしょうか。一幕のほとんどはライバルズに費やしており、さらに二幕の中心的な部分は越前リョーマvs幸村精市。なので、全国大会を演じ抜いてきた青学の役者さんたちの歌やダンス、お芝居をもっと見てみたかったというところに尽きるかと思います。もちろん前編で活躍しているメンバーが多いので、前編後編を合わせて評価するならば十分良いバランスではないかと思われますが、後編単体で評価した場合、少し物足りなさを感じてしまいます

 また、試合後の卒業式の演出。
 青学の3年生達、そして立海の3年生達の卒業式のシーンがあります。ただ、立海大附属中は高等部に進学するメンバーが多いように原作を見ていて思いましたので、この涙涙は役としてのものというよりも、役者さん達の卒業的な意味合いが大きいのかな、というふうに思いました。

 実際に、越前リョーマvs幸村精市の試合が終わった後に本当に涙を流している役者さんの多いことには驚きました。宝塚歌劇団ではあまり見ない光景ですね。
 調べたところ(とはいえネット程度の知識ですが)、ミュージカルテニスの王子様はお稽古期間も長く、テニスの合宿もあるため、疑似的な学園生活のようなものを味わっている。また、初舞台である役者が多いため、感情が昂りやすいのではないか……とのこと。
 その涙涙の公演が見られることが、ファンに特別感を感じさせる理由の一つでしょう。どうしても、プロになっていくにつれて一公演ごとの感動は減っていきますので、そういうところは宝塚歌劇でいう初舞台公演と同じなのかもしれません。

 というわけで、「ミュージカル テニスの王子様 全国大会 青学vs立海 後編」とても楽しく見させていただきました!
 気分のまま、「関東大会 青学vs立海」を購入し、また現在U-NEXTで配信中のレボリューションライブも配信購入してみましたので、また時間があればレビュー書きたいと思います。

 それでは。


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