会社という村

駄文です。

この文章で私が一番言いたいこととは、会社での在り方や文化を一歩退いてみてほしい、自身を俯瞰してほしいということです。説教的なことではありません。

会社でまったく合わないなと思ったり、周りの方々のレベルと比較して劣等感を覚えてしまう、仕事のために自分自身の人生や現実を再構成しなおすことができない、感じることは多種多様でありそれは全て真といえます。
しかし、それを思う、感じる、考えることに対して否定をするのは誤りであるといえます。正確には、外圧による判断の誘導であると思います。

そのような狭間に置かれている方々へ、迷ってる方々へ、私は考えてほしいと考えています。

結論からいうと会社は人間の集まりであり、一つの村での要素や環境、文化からくるもので、実態を持たず形而上的でしかないということです。例えばA社に新卒で入り、そこで仕事を全うするとします。これは素晴らしいと私は思いますし、尊敬もしております。しかし、そこから社会と自分自身を結びつけるとき、そこに一種の弊害を自分自身で作ってしまうのではないかと思います。会社という村で教わってきたもの、見てきたものを当たり前と思ってしまうことではないかと思います。村での業務に関わること以外は、すべて実は半信半疑な存在であり、無に近いなにかであるのではないかという疑問が私に投げかけてきました。一歩違う方と話すだけで、まったく別の風景画を私に描かせたからです。その風景画はやはり絶対的であり評価対象ではありません。そこで、私はこの風景は自分の軸には存在しないと考えました。この無の肯定は、その方の村が自分の村とまったく別の次元であることも肯定していました。もしも、私が村の文化を評価の基準にしたとき、私は彼のキャンバスを純粋にはみれず、ネームプレートといった外殻で判断をしてしまっていて、本質とはまったく違う場所にいたことでしょう。私は、村の文化は村でしか判断基準を持たず、外へは持っていけないなにかであるのではないかと思います。

そこで、外圧による判断の誘導の正体を探りたいと思います。現時点では、それは無であると考えています。なぜ発生するのか。村という文化を基準に持っているからではないかと思います。私はこの基準により、絶対的でないものに対して軸を持つことで自分自身に対して本質を遠ざける行いをし、歪んだ結末を呼び寄せました。そして、その無こそが思考の誘導や感情の否定をもたらしました。
しかし、無なのでした。私はそれに気づいたとき、はじめて文化に対して俯瞰することができました。それにより、村という垣根をこえて人をみることができるようになり、自分と他者のキャンバスをまっすぐ見つめることができるようになりました。


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