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古の夢女が最近の夢界隈について思うこと《雑感》


#夢小説

 初めに言っておきますね。この記事を書いた意図は、決して昨今の夢界隈に革命を起こしたいだとか「間違っているから正すべき」だとかいう啓蒙思想に基づくものでは断じてありません。これから書くことは、一オタクのただの個人的意見に過ぎないということは強調しておきたいと思います。もしもこの文を読んで、「ぬぁ〜にをぬかしとんじゃい!」と憤りを覚えたり、ソ◯ルジェムが濁り始めたりしたら急いでこのページを閉じてください。そして目を閉じて深呼吸し、何でも良いので心が落ち着く癒しを得てください。もふもふした可愛い動物の動画や、一番お気に入りの推しの画像を眺めましょう。ね、そうしましょう。お願いします。

 私はいわゆる「古の夢女」です。今や酸いも甘いも噛み分けた立派なアラサーになりましたが、二次創作の世界に初めて足を踏み入れたのはおよそ15年前に遡ります。
 当時の私は友人の影響で少年漫画に次々とハマり、キャラの1人に猛烈に恋しては妄想を繰り広げる毎日でした。ある時はバスケ部のマネージャー、またある時はテニス部のマネージャー、果ては死神になったりエクソシストになったりもしていました。(恐らく私と同世代の古の夢女の皆さんは、「あーね……」と遠き日のご自身と重ね合わせていることでしょう。)
 妄想を文にしてニチャニチャするタイプのオタクである私にとって、主戦場は「夢小説」の界隈でした。初めこそルーズリーフにつらつらと脳内妄想を吐き出して友人に読んでもらっていましたが、やはり「せっかく書いたのだから、より多くの人に読んでもらいたい」という自己顕示欲も出ようというもの。気づいたらサイトを立ち上げ、ちまちまと連載をするようになっていました。
 今でこそTwitterや pixivで数多の夢小説を読めるようになりましたが、私が二次創作を始めた頃の「夢小説」といえば、個人サイトで掲載されているものを読むのが恐らく一般的でした。ランキングから目当てのキャラが取り扱われているサイトを訪問し、気に入った作品があればそのサイトの更新を楽しみに待つ日々。
 今でも勿論サイト中心に活動されている字書きさんは沢山いらっしゃいますが、Twitterで活動する書き手の数のほうが圧倒的に多いなと感じます。

 さて、書き手としての私がこだわっていたもの、それは「ヒロイン(つまり「夢主」)の個性は希薄にしたい」というものでした。私は夢女の中でも「自己投影型」と呼ばれるスタイルで夢を見ている女です。(この「自己投影型」には、①推し×自分として夢を見るタイプと、②自分とは外見や性格が異なる創作ヒロインに自身を重ね合わせて夢を見るタイプがあるようなのですが、私が言っているのは特に①のタイプです。)
 要するに私が書く作品というのは、私が推しとどんな恋愛をしたいか(というより、どんな恋愛を妄想の中でしているか)を文にしたものなのです。だからこそ私の作品を読んでくれる人には、作品の中で推しと恋愛しているようなドキドキ感を味わって欲しいなと考えていました。そのため、ヒロイン(夢主)は読者が自分を重ね合わせやすいようあまり特殊な設定を与えず、肩書きや才能も平凡な、いわゆる「普通の女の子」にしていました。

 夢女の皆さんはご存知でしょうが、多くの夢小説サイトには「名前変換」という機能がついています。作中でヒロイン(夢主)は仮のデフォルト名または「ナマエ」などといった呼称で登場し、読み手はその「ナマエ」の部分を自分の本名や好きな名前に変換して読むわけです。
 あるいは、作中には一切名前が登場しない「ネームレス」という形態も存在します。この場合、作中で推しに自分の名前を呼ばせることは出来ませんが、肩書きや二人称(「君」や「貴女」など)で呼ばれるので、作品世界に自己投影しやすいのは間違いありません。
 何が言いたいかというと、私のような自己投影型夢女にとって、名前変換有りやネームレスの夢小説こそが本来の「夢小説」なのではないかと思うのです。読者が作品の中で夢を見るための小説という意味では、作品の中のヒロイン(夢主)は可能な限り無個性であるのが普通なんじゃないかと私個人は思っています。(勿論かつての「最強ヒロイン」のように、個性強めの設定で書かれたネームレス夢小説も人気はありましたが。)

 先程Twitterやpixivでも夢小説は沢山読めるようになったと書きましたが、確かにそういう場所でもネームレスで書かれた作品は沢山あります。pixivでも最近は名前変換機能がついている作品も上げられていますよね。だからこそ変換出来ない状態でオリジナルの固定名がつけられた夢主が登場すると、ちょっと違和感を覚えます。
 いえ、その作品自体は良いのです。名前ありき、設定ありきの、その作品の中で推しのパートナーにしたい女の子を生み出して登場させる創作も勿論あって良いと思います。でもそれは「夢小説」ではないんじゃないでしょうか。少なくとも自己投影はしにくいです。私の名前ではない知らない女の子が、推しと会話したり恋愛したりしている。これだと「夢」は見られません。
 たまに推しとヒロインの息子(または娘)が登場する作品も見かけますが、これも「この子を産んだ覚えはないぞ?」と思ってしまいます。さらにその子に固定名がついていたりしようものなら、「どこの子やねん」としか思えません。(そろそろお気づきかと思いますが、私はかくも面倒臭い夢女です。「コイツ痛いやっちゃな」と思われたら今すぐ逃げてください。)

 単刀直入に言うと、それぞれを別のジャンルに仕分けられないのかなって思います。「キャラ×創作ヒロインの二次創作」とか「恋愛二次オリ創作」というジャンルを作って、「夢小説」とは分けるのはどうでしょうか。だって、推しが出てくる二次創作を読みたい人全てが自己投影型夢女というわけじゃないですものね。魅力的なヒロインが登場する二次創作の小説だって需要はあるわけですから、そっちはそっち、という形で棲み分けたら良いのではないかと私は思います。

 ここまでは私自身が字書きということもあって、夢小説の話を主にしてきました。ここからは「夢女」(作品を見る側)という立場からの「夢絵」や「夢漫画」についての一見解を述べさせてください。
 どのジャンルでも、二次創作をする人は「字書き」「絵描き」の2種類に分かれると思います。文も絵も両方創作している人もいますけどね。
 夢界隈の絵の二次創作においては「夢絵」「夢漫画」というものが存在しますが、ここで私が気になるのが「オリキャラ」または「固定夢主」と呼ばれるヒロインです。(この2つを同一視している人もいれば、別物と捉えている人もいると思いますが一旦置いておきます。)
 描かれる絵のテーマやシチュエーションによっては、ある程度ビジュアルのあるヒロインが推しの相手として描写されるのが仕方ないのはわかります。これも自己投影型の中でも意見が割れそうですが、絵の中で推しが自分に話しかけたり見つめてきたりしているもの(=一人称視点の夢絵)以外は、知らない女の子が推しとイチャついているようで無理、という人もいますよね。私個人は「顔有り夢主」という注意書きがあれば、あまり気になりません。便宜上ビジュアルが定まっているだけなら、その女の子に自分を重ね合わせることは可能だからです。
 気になってしまうのは、固定名とオリジナル設定のあるヒロインが登場する絵や漫画です。ビジュアルががっつり決まっているのは勿論、プロフィールも作られており、推しとの関係性も設定に盛り込まれているような女の子。その創作の作者が生み出した全くオリジナルのキャラクターですので、やはりこれも「知らない女の子が推しとイチャイチャしている」という風にしか見ることが出来ません。
 先程の夢小説と同じことを言いますが、その創作自体は否定しません。可愛いヒロインを創作して推しの恋人にしたいという意図、推しに相応しい女の子を作って絡ませたいという意図、良いと思います。かっこいい推しと可愛い女の子が並んでいるのは絵になりますよね、わかります。あるいは、その女の子は創作者の分身だという場合もあるでしょう。それも良いと思います。でもそれって、作品を見る側にとって「夢」と呼んで良いのでしょうか
 創作する側にとっては「夢」かもしれません。自分のお気に入りのオリキャラや自分の分身が推しと恋をする。なるほど「夢」です。でも、それを見る側からしてみれば、やはりそれは推しが「自分ではない知らない女の子」とイチャイチャしているのをモブ目線で見せつけられるわけですよね。
 創作者本人しか夢を見られない作品を、私は「夢作品」と呼んではいけないんじゃないかなと思います。これも「推し×オリキャラ二次創作」として「夢」とは明確に区別されたら良いんじゃないでしょうか。

 よく「見たくないなら見るな」「文句があるならブロックしろ」という意見も目にします。確かにその通りですね。見なきゃいい。ごもっともです。
 創作自体はルールと節度さえ守れば自由だと思います。原作のイメージを損なったり、公式や作者に迷惑を掛けたりしないこと。盗作や模倣をしないこと。モラルとして遵守すべき範囲を逸脱しないこと。その上で行われる創作活動なら好きにやれば良いと思います。ただ、みんなが楽しく過ごせるためには棲み分けが必要なんじゃないかと思っているだけなのです。「見るな」と言う前に「創作するのは良いけど配慮しようよ」という話です。

 かつて個人サイトで創作活動をしていた頃、私は世の中の自分以外の夢女にどんな人がいるのかなんてほとんど感知しませんでした。人気ジャンルの二次創作界隈をTwitterアカウントから見渡して初めて、「最近の夢女ってこうなんだ」ということを知ったのです。
 創作者同士の横の繋がりが広がって、同じ推しでも色々な解釈の夢が共有されたり、絶賛されたりしている。それこそTLを受動喫煙していたら、読みたいものや見たいものを取捨選択しなければならないほど、多種多様な「夢」を見せられてしまいます。推しが登場するなら何でもOKという夢女が沢山いることもわかりました。そしてその中で、前述のように「夢」と定義して良いものか違和感を覚えるものも、夢界隈にひしめき合っているのに驚かされました。
 「何でも許せる人向け」と注がついているものや、オリキャラヒロインが登場する創作が夢女たちから人気を得ているのを見ると、もはや夢女として化石といっても過言ではない私のようなオタクは、時代遅れなのかもしれません。それこそ個人サイトにでも引きこもって、自分の創作だけで楽しめば良いのかもしれない。それが一番平和だとは思います。
 でも、ネットの片隅で叫ばせて欲しいのです。何でもかんでも「夢」と呼んで良いの?と。オリキャラヒロインを「夢主」と呼ぶのも、知らない女の子が出てくる小説を「夢小説」と呼ぶのも、やはり違和感しかありません。「恋愛二次オリ創作」と「夢創作」は別物だと思います。私と同意見の人はきっと少数派でしょう。それでも、理解はされなくても「古の夢女にはこういう考えのやつもいるのか」と知ってもらえたら嬉しいです。

 なぜ私がこんな文を書いてまで自分の考えを表明したいのかと言ったら、それはやはり私が推しにガチ恋して狂うタイプの夢女だからです。私の中では「推しに自分が恋している」という状態が夢女であって、夢女であるからには「推しとオリキャラヒロインをくっつけよう」という思考になることが不思議で仕方ないのです。そう思った時点で多分それは夢女というよりも、モブ思考とかお見合い仲介者思考じゃないでしょうか。それなのに堂々と夢女だと名乗られると「?」と思ってしまいます。
 そう、夢女は狂っているのです。二次元の推しにガチ恋するなんて正気の沙汰ではありません。だからこそ、夢女としては「夢」を壊されたくないんですよね。狂っているからこそ、推しの存在も自分の中の解釈もすごくすごく大切なのです。「これは夢作品です!」と出されるからには、ちゃんと「夢」を見られる作品であって欲しい。「推しと『うちの子』のイチャイチャっぷりを見て!」ではなくて、最低限そのキャラに恋する夢女のための創作であって欲しいです。そうでないなら、それは「夢」だと主張しないでいただきたいです。
 そもそも二次創作というもの自体、公式に見逃していただいているものだし、一般人にも見つからないようにコソコソやるべきものなんですよね。「夢作品」なんて、ただでさえ原作にいない「夢主」という架空の人物が推しと恋愛するわけじゃないですか。それだけでも原作ファンからしたら異質なのですから、「コイツ誰やねん」って思われるようなオリキャラを絡ませてる作品なんて、ネームレス夢小説よりもさらにコッソリ創作すべきじゃないのかな、なんて古の夢女おばさんは思います。鍵アカでやるとかね。

 最初に述べたように、ここに書いたことは私の個人的な意見です。読む人によっては「これは違うと思う」と言う人もいるでしょうし、「同じ自己投影型夢女だけど同意出来ない」と言う人も当然いると思います。それで構いません。
 最近の夢界隈は多種多様化したなという印象は受けましたが、きっとそれは「夢」について様々なスタンスの人たちを容易に見つけられるようになったからだと思うんです。個人サイト時代には見えにくかったものが可視化されただけなのかもしれない。でもだからこそ、「何でもかんでも『夢』と呼んで良いでしょ」という風潮は少しずつ変わって欲しいなとは願っています。
 二次創作に携わる全てのオタクが、水面化でそれぞれ楽しく活動出来ますようにと祈りながら、このへんで筆を置かせていただきます。ここまでお読みくださった方、ありがとうございました。

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