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養母の話し

 母の日に因んで?

 私には本当の母親の記憶もなく養母のことしか浮かばず

 可愛がってもらった記憶もなく、あまりいい思い出はないのですが

 養母は・・もともとはお洒落好きだったんだろうなと思います。
後半、あまり身だしなみを気にしない感じが嫌でしたが…

 貧しい日々を送った反動だったのかもしれませんが、ポー○化粧品など 私が小さな頃にはまだ高価な感じであった化粧品を使っていました。

あっ、今思うとセールスを断れないタイプだったのかもしれませんね。

 確か養父と知り合ったのは、居酒屋の女将さん?だった頃だったらしく、昔持っていたアルバムに貼ってあった白黒写真には、髪を高く結った、いかにも女将さんって感じの姿が写っていたのを覚えています。
(学生服を着た義父の写真なども貼ってあったそのアルバムは、子ども達の写真と共に元旦那に全て燃やされてしまったのは残念です)

 幼い頃に津波で戸籍をなくしてしまった養母は、学校にも通えず奉公にだされ他所の赤ちゃんをおんぶしたりして子守をして過ごしていたそうです。

 子守しておんぶして歩いていた時に、とっても眠くて気づいたら同じ場所にいたと聞いたこともあります。

 大正14年生まれだったのが戸籍がなくなり 他所の人の子供ということにしてもらうために大正7年で戸籍を作り直したような事を言っていて、養父(昭和4年生まれ)には年齢詐欺的なことをたまに言われていたようにも思います。

 戦後は米軍基地でも働いていたようで(多分闇市的な)、字はカタカナぐらいしか書けなかったのですが、片言での英語は話せたようで、たまに聞かせてくれだ気がします。

 苦労をした養母は、子宝には恵まれ7人ほどの実子がいるのですが、何かで家を出てしまったそうです。

 確か音楽を嗜むおとなしい旦那さんと、養豚場なども営み裕福に暮らしていたとか…聞いた覚えがあります。

その豪邸も…なんでもたまたま1枚買った宝くじで100万円当たり(100万長者という言葉があった頃)、山を一つ買って養豚場と家を建てたと聞いています。

 確かに幼い頃、一緒にその家に行ったことがあるのですが、玄関前までの道の両側に犬小屋がいくつか並んでいたのが印象的でした。

 幼心にも、大きな屋敷だなぁと感じました。

 養母は家出をしたあと、鳶職だった養父に出会あったそうで、置き去りにされた私を育てることになった事をきっかけに籍を入れたのかもしれません。

 確か、たくさん子どもを産んだので、もう子どもを産まない手術をしていたと聞いたので、二人で育てる子どもがいてもいいのかもと思ったのかもしれませんね。

 ただ、実子からは他所の子を育てて自分たちを捨てたと言われていたらしく、養母が入院した時も、最期の時にも連絡しても実子の人たちは誰もきてくれませんでした。

 養母は、それでも認知症になった最後の方でも産んだ子どもたちのことは懐かしそうに『たくさん子どもがいてね』って話していました。私のことは忘れきってしまっていて、なんだか微妙な気持ちになったことを覚えています。

 唯一、義母の長男は何度か泊まりで遊びにきたりしていたのを覚えています。

 その長男は、お屋敷のある敷地内の戸建ての家で一人暮らしだったようですが、その方が亡くなってしまった時に次男坊さんから連絡がきて法律上私にも養母分の(その時既に亡くなっていたのでわたしに?)遺産があるとのことでした。家の処分代などを差し引いたとのことで、確か数万円だった気がします。

 アルツハイマー認知症で・・そんなことも知らずに・・幼い頃の実子たちの思い出話を繰り返し繰り返し私に話し、最後は穏やかな表情で永久の眠りについたのですが。

 私の事は、見事記憶の中から消去されていたし・・先に亡くなっていた養父のことはまだ生きていていると思っているようで、しょうがない人でね~と、昔わたしに愚痴っていたように・・何度も話していました。

 そんな過酷な過去を背負い・・気だけは強かったので、職人気質の養父の言葉に売り言葉に買い言葉的になることも多く、夫婦喧嘩は絶えなく殺伐とした日々が多かったように覚えています。

 過去の苦労にとらわれていた養母は きっと無意識のうちに同情されたかったんじゃないかなと思います。

 『こんなに大変なのよ』ってアピールしてるように感じてました。

 わたしが小学校の高学年になる頃には、いつもボロを着て 髪の毛もぼさぼさで・・薬に依存していて(頭痛薬など)副作用で食は細いようでしたがかなり太っていました。

 その頃には病院で泊まりがけの家政婦の仕事をしていたのですが、その頃から殺伐とした雰囲気を身にまとっていたようにも感じます。

 白黒写真で見た凛とした雰囲気とはずいぶん違っていて、もしかしたらアルツハイマーはその頃からはじまっていたのかもしれません。

 今思えば自己評価も低かったのでしょう。

 7人も子供がいて優しい旦那さんと一緒になった場所からも逃げ出してしまったのは自分自身なのに…

 私はそんな姿(かみ振り乱して働いてみたいな)をみるのが嫌だったのだと思います。

 クラスの子にもそんな姿でウロウロする母をからかわれたりしたこともあり、とても恥ずかしいような悲しさを感じましたが、それを家で口にすることは一度もありませんでした。

 それでもいつも養父の事を愚痴るのを聞き・・私が守らなければいけないと思っていたので、酒乱の養父と喧嘩がはじまると中に入ってかばっていました。

 私は・・『苦しくても悲しくても・・あんなふうにはなりたくない』って・・そう思っていました。

 大変そうで苦しそうな姿をみて育つと、自分のことは言えなくなります。

 わがままは言わないし、何が問題が起こってもすべては自分で解決するしかなくて・・。

 うつむいていたっていいことなんてないのに、私はうつむいてばかりいました。

 わたしが母親になった時、母である以上・・やはり太陽でありたいと思っていました。

 そう私は思って 母子家庭であっても元気にお洒落も楽しんでいるようにして過ごしていたいと考えていました。

 子どもたちから見た時に「お母さんはなんだか元気で一人でも楽しんでて大丈夫そうだから・・私たちも頑張って自由に生きよう』って思って欲しい、そう願い生きてきました。

 親が心配で・・『私たちが守らなきゃいけない』なんていう、子どもたちを縛る足かせにはなりたくない。

 悲しみなんて、みんな何かしら抱えているのだし。。自分でしっかり抱えていればいいと思うし(ここは抱え込んでしまうということでは無いのですが)、楽しい事はどんどんシェアして幸せな気分を分かち合いたいなと、昔のわたしは強く思っていました。

 私は、側から見たら悲惨な人生を歩んだと思うけれど、その割には 幸せそうにおっとりみえるようで・・ラッキーなんだと思っています。

 娘たちも、裕福にみられたりすることもあるらしく それはそれでよかったなって思っています。

 苦労してますなんて顔にはなりたくない。小さな幸せを感じ取れる人でありたい。

 『私すごく頑張ってます』って顔なんてせずに さらっとした顔であれこれこなしていければいいなと、私は今でも思っています。

 『私はタフだからね』そう思って生きているうちに本当にタフになっていくものなんだなと感じています。


 そういえば子どもの頃

 母の日にはいろいろ工夫してプレゼントしたり、バイトをするようになってからはバッグやお財布など買ってプレゼントしたけれど、身につけてくれた事は一度もなかったな…

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