(ほぼ)100年前の世界旅行 エジプト(再びカイロ〜ポートサイード)1925/10/30-11/6
1925年、初めてエジプトを訪れた曽祖父・金谷眞一。カイロからナイル川沿いを汽車でルクソールへ行き、数多くの遺跡で悠久の歴史を満喫したのち、ルクソールからカイロへ戻ります。
アビドス神殿
ルクソールからカイロへ向かう途中、汽車で4時間ほどカイロ寄りのバリアナという停車場で下車。汽車は砂埃がひどく座っていられなかったようですが、車窓から見たナイル川に鶴のような水鳥が遊び、人々が漁や農作業をする様子をもの珍しく眺めました。
停車場に出迎えた二頭立ての馬車で1時間ほど行くと、お目当てのアビドス神殿です。ルクソールより彫刻が至って鮮明、4000年前の彩色がそのまま保存されている、周囲の村落の様子と比べて雲泥の差、と驚いています。どうやってこれほどの巨石を運んだのか、という方にむしろ興味が沸いたようです。見物後は村の料理屋で案内人とともに現地の「怪しき」料理を食べ、夜9時ごろ予約しておいた寝台車に乗り込みでカイロヘ向かいました。
カイロールクソール間の移動は今なら船を思い浮かべますが、眞一は往復とも汽車や驢馬で移動しました。これは、観光シーズン直前で、トーマスクックの観光船がまだ運行していなかったからです。船の方が移動はずっと楽なはず、と書いています。
再びカイロ
翌朝カイロに到着し、まずは朝食、と向かったのは前回に続き「カエロ第一位なる」シェパーズホテル。
見事な食器で供される美味しいパンとバターで俄然食欲がわき、久しぶりにポリッジを食べました。ルクソールに行く前に泊まったホテルが「貧弱」なため、シェパーズホテル隣のトーマスクック社に寄って、「三角塔の麓なる」メナハウスホテルの手配を依頼し、すぐさまホテルから荷物を引き取って移りました.シェパーズホテルの朝食でずいぶん元気が出たようです。
メナハウスホテルはもともと、オスマン帝国領エジプト(1517−1882)の総督イスマイル・パシャが1869年に作った狩猟用の別荘(hut=小屋と名前がついていましたが、そんなわけないでしょうね)で、これを改装して1886年に開業。エジプトで最初のプールもありました。変遷の末、今はマリオット系列です。
眞一が滞在した週末は、観光シーズン幕開けで、土曜は夜遅くまでダンスパーティー、日曜も夕方から車で来る客200名以上で前庭の喫茶は大混雑、今後2週間程度この混雑が続く、という繁盛ぶりでした。アガサ・クリスティの「ナイルに死す」で主人公の若き女性富豪が新婚旅行でまずここに1週間滞在した、という設定は、この時代の富裕層の行動として当然だったのでしょう。そしてここはなんといってもギザの三大ピラミッドのすぐそばという最高の立地。日中の暑さを避けて時間を潰した後、眞一は夕方和装に着替えてピラミッドに上りに出かけます。
袴に草履でピラミッドに登るのは骨が折れそうですが「案内人とともに20分間にて容易に達するを得たり」と書いています。頂上からは他にもいくつかピラミッドが見えたとも。日没の風景を楽しみ、夕食後もまた和装のままピラミッドの麓まで行って、月見を楽しみました。この旅行中和服は眞一の「勝負服」でしたが、ここでは5000年前の王たちに、日本人を代表して敬意を表す思いの正装だったかもしれません。
人々のこと
ピラミッドなど観光地の案内人やしつこい物売りにはずいぶん辟易したようです。ぼったくりを警戒して、巡査の目の前で案内人に料金を支払ったら、当の巡査がもう1人雇うよう命令したり、ホテルのボーイが強引に案内人を手配して上前をはねることもあったようです。ある日はスフィンクス周囲の砂を取り除く作業をする人々が昔の奴隷のように鞭で打たれているのを見て監督の巡査に注意しますが、「請負人が損をしないよう叩いても働かせるのが当然だ」と周囲の人に言われて驚きます。また、イタリア・ストレサのレジーナパレスホテルで知り合ったエジプト人元高官の家を訪ねた際にも、使用人への態度が乱暴で困惑しています。「目覚めよ埃及人、然らざれば汝らは世界的奴隷として永久に葬らるべし」と日記に書いたのは、歯がゆい気持ちからだったのでしょうか。この頃の日本が、日露戦争や世界大戦を経て国際的に地位を向上していることを背景にした、一般の日本人の心象のように思われます。
ポートサイードへ
2日間メナハウスホテルでピラミッドを楽しみ、おそらくサッカラにも出掛けたようです。
カイロ市内のモスリム地区の大学も見学し、少人数のグループがいくつも机を並べる様子が日本の寺子屋のようだ、と感想を残しました。メナハウスホテルからコンチネンタルホテルに移り、その支配人やシェパーズホテルの支配人とも知り合いました。2人ともやり手の若いスイス人で、観光シーズンを迎えて絶好調のビジネスの話も聞き、大いに刺激を受けたことでしょう。
11月4日、次の目的地英領インドのコロンボへの移動のため、列車でスエズ運河に通じるポートサイードへ移動。途中英国軍が砂漠で機関銃の演習を行っている様子や、灌漑によって緑豊かな農地も見えました。宿泊したのは地中海から港に集まる船を一望するカジノホテルです。メナハウスホテルよりは格下だが当地では第一流、だそうです。
ここでは翌日乗船予定のDumana号の出航を待つばかり。まずはトーマスクックに出かけ、チケット受け取りです。コロンボまで48ポンド、コロンボー神戸が38ポンドでした。夕方には、南部憲一氏を訪ねます。
日本人実業家・南部憲一氏
南部憲一氏は、1895年北海道夕張生まれ。16歳で横浜に出て、イタリア系移民が経営するフィオラヴァンテ商会で働き、ポートサイード本店と契約し1914年(大正3)に渡航。その後1916年に独立し、兄と弟を呼び寄せてNambu Brothers社を設立しました。この背景には、第一次世界大戦中に日本海軍の軍艦の地中海往来が急増し、ポートサイードでの物資補給の需要が高まったことがあるようです。それ以前から、日本から欧州向けに絹や木綿の輸出が増え、スエズ運河には商機がありました。”Ship chandler, general merchant, tourist agency”を生業とし、実際、日本人の間では、欧州ーエジプト往復の手配をすべて南部氏に任せて、ポートサイードからカイロに移動し即観光、そののち(時には一泊し)ポートサイードに戻りまた船で欧州やアジアへ出発、というパッケージが人気で、トーマスクックと同様のツーリストエージェンシーとして繁盛していたと眞一は書いています。南部氏は当時30歳前後、「前途有望の青年なり」でした。市会議員に立候補して当選したこともあり、現地でも有名人だったのでしょう(エジプト新憲法により、外国籍を理由に当選は無効となりました。残念)。眞一が訪ねた頃は、ドイツ海軍に撃沈された日本郵船の八阪丸から「英国金貨百萬円」の陸上げに成功したばかりで、その武勇伝を大いに語り、引き上げに使った袋や実際に金貨が入っていた箱なども見せてくれました。この引き上げは、別の人物の活躍として知られているそうですが、実際の現地での様々な手配は南部氏が行っていたことでしょう。
文献(後述)によれば南部氏は、「当時の日本人のエジプト観光の礎ー通訳・交通手段・宿泊施設の手配から、記念写真の撮影、配達までーを築き、中東に対する心象地図の形成に大きく貢献したという意味で非常に重要な人物である」とあります。曽祖父の日記には、南部氏の兄Keizo(慶三)氏のコロンボ支店、弟Takuzo(辰三とも)氏のシンガポール支店の住所もありました。100年前にこんな日本人兄弟が遠いエジプトやスリランカで活躍していたとは、驚きです。もっと知られてほしいですね。
乗る予定の船の出航が遅れ、もう一晩滞在した翌日に眞一は南部氏を再訪し、当時の領事・小林氏の元に連れられ、3人でビールを飲みました。11月6日の眞一の出航の際には、南部氏はわざわざ艀で船までやってきて、エジプトタバコ400本を餞別に見送ってくれました。眞一は顧客ではありませんでしたが、南部氏の同胞へのホスピタリティが伺えます。
妻・みちを想う
11月5日は、前年に病気で亡くなった眞一の妻・みちの命日でした。25年連れ添った愛妻です。残っている写真は少ないですが、面長の、目元が涼やかな人でした。眞一は「思い出せば断腸の感あり。人生免れぬ運命なれど忘れ難きこと是非もなし。愛妻みちは余を励まし保護しつつあるなり。心機一転大いに奮闘を覚悟す。」とこの日の日記に記しました。
英領インド・コロンボに向け、スエズ運河、紅海へとイギリス船Dumana号での2週間の船旅の始まりです。一等船室唯一のアジア人、金谷眞一の旅は続きます。
参考文献:「欧州航路の文化史」第5章「スエズの商人・南部憲一」 山中由里子
青弓社 2017年
今回はこちらの文献をものすごく参考にしました。南部氏について書かれたもので私が見つけられた唯一の情報です。もっと知ってほしい人物です。
この本は日本郵船の欧州航路を使った日本人の渡航事情を取り上げていて、眞一の旅行と成り立ちがまるで違うので、その比較としても興味深かったです。
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