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(ほぼ)100年前の世界旅行ー5月29日日光出発から横浜まで

“Departure Nikko by 9:45 a.m. train for my “Round the World Trip.”

1925年5月29日(金)、曽祖父・金谷真一はいよいよ念願の世界旅行へ出発する日を迎えました。ここからの半年間の毎日を綴った日記の1冊に真一が記したのが冒頭の1文です。公私ともに多忙、多難な数年間をへて、やっと自分の好きなことができる喜びと、安堵が込められているように思います。でもTaft号の出港は6月1日(月)。それまで何をして過ごしたのでしょうか。
*Twitter(@shinkanaya)で毎日の旅行記を連載しています。併せてご覧ください。

5/29 箱根 富士屋ホテル

日光駅で日光金谷ホテルや日光自動車会社従業員や知人の盛大な見送りを受けた真一が上野で汽車を乗り換えて向かったのは、箱根宮ノ下の富士屋ホテルです。創業者の故山口仙之助氏は真一も教えを乞うた、1878年(明治11)創業のリゾートホテル経営の大先輩。真一の3歳下の弟正造は望まれて1907年(明治40)山口家に婿入りしました。

1915年(大正4)頃の真一(右)と正造。

余談ですがその媒酌人は渋沢栄一。「近代産業の父」と呼ばれた実業家は、西洋式ホテルの開業の必要性を早くから認識し、帝国ホテルをはじめとする多くの開業に関わっていましたから、すでに外国人の間で著名リゾートホテルとなっていた富士屋ホテルの婿取りに立ち会ったのは当然のことだったのでしょう。その後創業者仙之助は引退、正造が専務となった富士屋ホテルは1923年(大正12)の関東大震災で壊滅的な被害を受けました。その惨状を目にした真一は正造に、再建は諦めて日光に帰って金谷ホテルを手伝ってはどうか、と話します。しかし元々勝気で負けず嫌いの正造は「成功して帰るならとにかく、失敗しては帰らない。」と断り、再建に邁進した経緯がありました。震災翌年には営業を再開したとはいえ、まだ道半ば。真一は長い旅行に出かける前に富士屋ホテルに一泊して、弟の再建の様子を見守り、ゆっくり労いたかったのでしょう。

5/30  スケートの会

山口家のご母堂にも挨拶をすませ、翌30日に真一は正造とともに東京へ向かいます。ここでは「OSM会(Our Skating Members)」による送別の会がありました。会の命名者久邇宮朝融王(妹良子女王はのちの香淳皇后)はしばしば日光金谷ホテルのスケートリンクでアイススケートを楽しまれており、殿下を中心としたスケーターの親睦会ができたものでしょう。

右端が朝融王、左から2人目が交野政邁子爵(日本スケート連盟初代会長)夫人錥(いく)様。朝融王の隣は真一の長女花子。1923年(大正12)頃の金谷ホテルスケートリンク。


アイススケート場は、客足の鈍る寒い冬場の集客策として真一が1916年(大正5)に始めたものですが、1916-17にかけて正造夫妻と行ったアメリカ視察旅行の際、すでにアメリカ東海岸で盛んだったスケートに興じる人々の様子を真一も具に見て、のちに今も日光金谷ホテルに残るスケートリンク付属施設「龍宮」などの整備に活かしたと思われます。アイススケートは冬の日光で楽しめるリゾートスポーツとして定着し、金谷ホテルは冬もお客で賑わうようになります。真一のこの頃の備忘録のには、冬の間皇族華族方がスケートをしにいらしていた記録がたくさん残っています。
真一のこの日の日記には「殿下ご臨席なきは残念なりしも侯爵が代わりてご出席ありしことと見る」とあるので、OSM会には朝融王はご欠席で、弟君の久邇邦久侯爵が来てくださったようです。正造も飛び入り参加しました。少人数のくつろいだ会であった様子も伺えます。

日光と皇族方との関係については、栃木県立博物館で今年秋に「近代皇室と栃木〜とちぎ御用邸物語」が予定されています。楽しみです。

帝国ホテルに一泊した翌5月31日は、家族親族との送別会、そしていよいよ6月1日に横浜に向かいます。

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