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(ほぼ)100年前の世界旅行 シンガポール〜サイゴン1925/11/27〜12/8

曽祖父・金谷眞一の世界旅行は日本帰国途中。セイロンを出発し、ここから約2週間、東南アジアの港に停泊しつつ進む船旅の毎日です。

インド洋へ

11月27日、トーマスクック コロンボ支店のスミス支店長に別れを告げ、一人ぼっちの出発です。まず荷物とともに小舟に乗り、フランス船アンボワーズ号に乗船しました。

この旅行中おそらく初めて乗るフランス船ですが、一等船室でも3人相部屋で、それぞれの荷物を運び入れると身動きもできず「旅行中一番の失望」、「動物園」と日記に記しました。でもこの船には「三井物産の機械部員」の一色氏をはじめ、数名の日本人が乗っていました。苦境を聞いた一色氏は自分の船室に移るよう勧めてくれ、お言葉に甘えることにしました。

これまでの旅行中、眞一はイギリス系の船に乗ることが多く(日本船は皆無)、乗員・乗客の規律の正しさや清潔さに比べると、アンボワーズ号ではカルチャーショックを感じたようです。パジャマ姿で食堂に現れた人物に驚愕したり、食事の時に3等船室にまでワインが無料で振舞われるのはさすがフランス船、とも書いています。

12月に近いこの季節でもインド洋上は暑く、寝苦しい夜を過ごします。当初の計画では、6月に横浜を出発しインド洋を経てヨーロッパに行くつもりでしたが、南洋によく出かけていた弟・山口正造(箱根・富士屋ホテル)から暑さで体調を崩すと忠告され、太平洋航海に変更したのはまさに正解でした。
5日間の航海の間、仮装大会やダンスパーティーが行われましたが、朝まで甲板で騒ぐものもいて、日本人の「續木斎」氏(京都寺町の住所が曽祖父の日記に残っています)が苦情を申し入れました。

ちなみに、京都で1913年創業のベーカリー「進々堂」の創業者の方が「続木 斉」氏で、日本のパン屋さんで初めて1924年にパリに留学した方だとわかりました。同社のホームページに「1925年帰国」との記述があるので、このアンボワーズ号で曽祖父がご一緒した「續木氏」ではと思われますが、留学期間が2年、という記述も。でももしご一緒していたら、フランス料理談義に花を咲かせただろうと想像するのも楽しいです。

シンガポール停泊

12月2日、シンガポールに到着。1晩だけの停泊です。接岸が夜8時と遅かったため船内にとどまる人も多かったようですが、眞一は早速一色氏、續木氏とタクシーでシンガポール市街へ出かけます。様々な人種が入り混じる有様は「ちょっと予想だにせざる光景」だったようです。日本帰国も近づき、そろそろお土産の調達も気になるようで、ステッキを買おうとしますが高くて断念。明日小舟で行商人が船まで売りに来るだろうと思い、この日はそのまま船に戻りました。

翌日船は早朝岸を離れ、結局お土産は買えませんでした。シンガポールに来たのに、ラッフルズホテルも見ず感想が残っていないのは残念です。シンガポールが意外に涼しかったせいか午後から発熱、さらに海が荒れて旅行中一番の揺れを経験します。

サイゴン停泊

12月5日夕方、揺れながらも船は無事にサイゴンに到着しました。同室の一色氏と、續木氏とともに街にでて、日本料理「イビスや」(エビスや、でしょうか?)で久しぶりの和食を楽しみました。

今回の参考文献(後述)によると、仏領インドシナに最初に進出した日本企業は1907年の三井物産で、日本国内の米需要の不足を補うためのフランス系商人との米輸入取引が目的でした。ついで三菱商事。横浜正金銀行が1920年にサイゴン出張所を開設、領事館開設はその後の1920年代です。こうした大企業の進出にともない、小規模な企業や現地の日本人のための食堂や宿なども増えていたことでしょう。気になるメニューは、「サシミ、テリヤキ、スイモノ、香ノモノ」でした。

船友の方たちと思われます。(金谷眞一撮影)

曽祖父が世界旅行中に撮影した写真は長年見つからなかったのですが、昨年の冬、ちょうど金谷ホテルの150周年記念誌の編集作業も佳境のある日、ひょっこり出てきました。曽祖父が空から差配したのかもしれません。その中にあったこの、棕櫚の並木をバックにした2人の男性の写真の裏に「Saigon」とあることから、船でご一緒した方達と推察しています。三揃いに革靴、当時流行したボーターハットがおしゃれですね。一人旅のため曽祖父本人の写真はほとんどないのですが、いつかご紹介できればと思います。

サイゴンにはコンチネンタル・グランドホテルなど大きなホテルもありました。しかし、旅行者を誘致している様子もない、トーマスクックの支社もないのになぜか繁盛している、と不審そうで、珍しく特に視察には行きませんでした。トーマスクックからの紹介もないし、仏領で英語が通じにくかったのかもしれません。そのほか動物園で元気な動物たちをみたり、中華料理を食べに行ったり(ここでは漢字の筆談)しましたが、日中30度を超える暑さで活動時間も短く、少し退屈した様子もうかがえます。

12月8日にはサイゴンを出航。この日は眞一の誕生日です。

四十七回誕生日を迎う。失敗多かりしわが半生 省みるだに汗顔に堪えず。

1925年12月8日 金谷眞一日記より

だそうです。暑い国で、「今頃日光ではスケートリンクに水を入れる頃だろうか」と、冬を迎える金谷ホテルに思いを馳せています。

次の停泊地は香港、次いで上海では久しぶりに上陸滞在し、最後のホテル見学です。

参考文献:
仏領インドシナへの日本人進出の様相について、以下を参考にさせていただきました。
・「仏領インドシナにおける日本商の活動:1910年代から1940年代初めの三井物産と三菱商事の人員配置から考察」 湯山秀子 2013年 
経済学研究62(3)107−121 北海道大学学術成果コレクションより
・「東亜同文書院生が見た仏領インドシナの日本人:1910−1939」加納寛 
2019年3月 文明21 (42)21−35





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