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(ほぼ)100年前ってどんな感じ?


さて、曽祖父・金谷真一が旅行に出た1925年(大正14)は、どんな時期だったでしょうか。

時は大正デモクラシー。1918年に第一次世界大戦が終わり、パリ講話会議をへて1920年に国際連盟が発足。そして迎えた1925年の世界の主な事柄をあげてみると

1月 イタリアでムッソリーニ首相が独裁を宣言
2月 エジプトでハワード・カーターがツタンカーメンを発見
7月 ドイツでヒットラーが「我が闘争」発表
11月 ドイツでナチス親衛隊発足

他にも、アガサ・クリスティが「ポワロ」シリーズ(1924)、「アクロイド殺し」(1926)など発表していた時期です。NHK BSで今も放送中のイギリスのドラマシリーズ「名探偵ポワロ」は、大体1920−30年代の設定のようですので、あんな雰囲気を想像すればそれほど外れてはいないと思われます。

日本ではラジオ放送開始、武田薬品、味の素など今も続く企業が誕生、東大の安田講堂が竣工、普通選挙権法(まだ女性には参政権はなし)、治安維持法施行など盛りだくさん。江戸川乱歩も本格的に小説家として活動を開始しました。時代の勢いが感じられます。

真一個人について見てみるとどうでしょう。当時45歳(12月8日生)。父が始めた金谷ホテルを18歳から手伝いはじめて以降、栃木県下初の電話導入、自家発電所建設による暖房設備、客室給湯の導入、冬場の集客策としてスケートリンク設置など着実に設備を拡充し、日光を訪れる外国王族、国内宮家のご愛顧もあり、実弟正造が婿入りした箱根宮ノ下の富士屋ホテルと並ぶリゾートホテルに成長しました。電気軌道会社や自動車会社も手がけています。1916-17年(大正5-6)にかけては、弟正造夫妻と共に米国旅行にも行きました。

1922年(大正11)には、本館焼失のため経営陣を一新した東京・帝国ホテルの経営に、新会長・大倉喜七郎男爵の要請を受け、実弟・山口正造(箱根・富士屋ホテル常務)、義弟・金谷正生(まさなり。真一の妹・多満の夫で金谷ホテル役員。のち鬼怒川温泉ホテル経営)とともに、翌年4月までの短期間参画しています。地方のホテル経営者にしては、「金谷3兄弟」は業界では知られた存在となっていました。

震災前の帝国ホテルにて。右から金谷真一、弟山口正造、義弟金谷正生。中央の美女はどなたかご存知ないですか?


1923年(大正12)はじめに父善一郎が他界。同年9月には関東大震災が発生。金谷ホテルは被害を免れたものの、弟正造の箱根富士屋ホテルは壊滅的な被害を受けました。また、帝国ホテルのライト館の開業日でした。図らずも耐震性を証明しましたが、被害は免れません。すでに帝国ホテルの経営からは離れていた真一ですが、備忘録からは、帝国ホテルにも富士屋ホテル同様に応援の人や物資や食料を自動車で送っていることがわかります。

明けて1925年(大正14)、真一は長女の花子に婿を迎えました。しかし前年には、20年以上つれそった妻・みちを病気で亡くしています。公私ともに激動の数年を過ごし、なにか一区切りついた時期だったのでしょうか。前年に日光金谷ホテルでアイススケートを楽しまれた秩父宮殿下が、留学のため渡英されるという新聞記事が、真一に念願の世界旅行への出発を決意させます。



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