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(ほぼ)100年前の世界旅行 スイス・ジュネーブ〜ツェルマット 8/23-27

2日半の短い滞在のパリからスイスへ向かう眞一。まずはレマン湖のほとり、ジュネーブのRichemond Hotelへ。ここには明治期の「お雇い外国人」筆頭とも言える日本学者が住んでいました。

バジル・ホール・チェンバレン氏(1850−1935)

チェンバレン教授は1873年(明治6。眞一の父、金谷善一郎が自宅で外国人むけの「金谷カテージ・イン」を開業した年)に英国から来日し、東京帝国大学で長く教鞭をとり、日本に関する著作、ガイドブックの出版や日本古典の英訳などを手掛けた日本学の第一人者です。1884年(明治17)ごろから箱根・宮ノ下の富士屋ホテルに滞在し、創業者山口仙之助氏とその家族と親しく付き合っていました。1907年(明治40)に山口家の長女・孝子の婿として金谷正造(眞一の弟)が結婚しましたので、その関係で眞一も教授と付き合いがあったものと思われます。1911年(明治44)にジュネーブに移り、レマン湖ほとりのRichemond Hotel(現在のLe Richemond)で暮らしていた教授に、眞一はパリから電報で1部屋を取ってくれるよう依頼していました。夕食の際、教授が眞一のテーブルに来てくれて2人はしばし語らいます。一緒に夕食を取るという間柄ではなかったのか、教授が高齢のせいなのかはわかりません。眞一は「75歳だが元気そうだ。もう忘れてしまったといいながら完璧な日本語を話す」と日記に書いています。

Le Richemond。ホテルの前に船着場があります。


Richemond Hotel(現 Le Richemond)は1875年にアームレーダー家が創業、4代にわたり運営してきましたが、2004年以降は英国系やブルネイ系の高級ホテルチェーンの傘下に入り、2020年には新型コロナ流行のため休業、2023年にドバイのジュメイラグループ入りし、現在大規模改装中とのことです。

ジュネーブの印象

国際都市ジュネーブは清潔で、人々も寛容で礼儀正しい、タクシーの運転手ですら支払いの時には帽子を取る、英仏では思いもよらない、というのが眞一の印象です。観光バスで名所をめぐり、パリからの汽車で同じコンパートメントで知り合った日本代表部の人物を訪ねたり、そこでまた別の知り合いにあったりして過ごしています。スイスでは数々の雄大な山や湖の美しさを堪能しますが、レマン湖の美しさも「広重の絵のような青い湖」、「この世の天国」と感激しています。

ツェルマットへ

この移動は、なかなか大変でした。朝レマン湖をローザンヌへ船で移動したのち、汽車に乗り換えるのにタクシーを使うつもりが見つからず、やむなく22キロの荷物を下げて電車に乗り、降りた乗り換え駅で赤帽は見つからず、似たような制服の巡査や郵便配達人に声をかけて睨まれ、やっと自力でプラットフォームについたと思ったら反対方向で、荷物を持ってトンネルを走り、ようやく汽車に乗り込みました。この旅行中初めてと言えるドタバタの記録です。その後さらにフィスプで元軽井沢にあるのと同じアプト式登山電車に乗り換え夕方ツェルマットに到着しました。

登山鉄道

ツェルマットの登山電車の絵葉書

スイスの鉄道は、他のヨーロッパ諸国と比べるとやや遅れて整備が始まったようです。日本の九州より小さい国土は欧州のほぼ中央、山は多いが人口のほとんどは国土の30%ほどの平野部に住んでおり、鉄道の路線密度は世界一です。中でもラックレールの山岳鉄道が運輸、観光の両面から多く採用されています。ラックレールは歯のあるレールの上を、車体下に歯車をつけた車両を走らせて噛み合わせることで急勾配を上り下りする鉄道(Wikipediaより)で、レールの種類によってアプト、シュトルプ、リッゲンバッハなどがあるのですね。日本でのラック式は大井川鉄道のアプト式が日本唯一現役(1990年開業)なのだそうです。眞一が乗ったフィスプーツェルマット間は1890年に開通し、最大勾配は125パーミル(‰)すなわち1000メートルで125メートルを上ります(大井川鉄道は90‰)。この辺りは詳しい方に解説をお願いしたいところですが要するに、山を登り、越えるためにトンネルもあるしジグザグやスパイラルのコースをとることもあり、スイスの車窓は変化に富み旅行者を今も昔も楽しませているわけです。眞一も「ここの景色が最高だと思っても、次から次にそれを上回る景色に出逢う」と驚いています。

モンセルバン(マッターホルン)

フランス語でMont Cervinと書かれた同じ山の絵葉書が何枚もあるけどこれはどこかしらんと思ったら、なんとマッターホルン(ドイツ語)。フランス語名を初めて知りました。4478mです。

鏡マッターホルン
山越マッターホルン
教会とマッターホルン
シュワルゼーからみるマッターホルン。だんだんソフトクリームに見えてきた…

ツェルマットではゴルナーグラート(3150m)に登り、「中禅寺の中の茶屋(1106m)に行くより大変」(そりゃそうだ)な思いをしました。シュワルゼー(2589m)頂上のホテルでは、目の前に聳えるモンセルバン(くどいですがドイツ語ではマッターホルン!)が富士山より2000フィートも(約600m)高い、と驚いています。こうした2000メートルを超える場所にホテルが多いこと、水力発電所が多いことにも注目しています。眞一も日光で1908年(明治41)に自前で水力発電所を設置したこともあり、特に興味を惹かれたようです。9月に訪れるドイツではこの設備の購入で世話になったシーメンス社の人々とも再会します。

次はユングフラウを臨む、2つの湖に挟まれた町インターラーケン、そしてルツェルンへ向かいます。

参考文献:
「箱根富士屋ホテル物語」(山口由美 小学館文庫 2015)
「鉄道の世界史」(小池滋、青木栄一、和久田康雄編 悠書館 2010)

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