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古筆(こひつ)鑑賞

昨年、書の観賞の集中講義を受けました。知識ゼロでもO.K.ということで、自信を持って受講しましたら、そこにはこの道〇〇年、という猛者が揃ってらっしゃいまして、例によって例のごとく、単純行動の自分を恨みました。。。ピンときたら、すぐ飛び込んじゃう。もう、そんな自分に付き合うしかないんですけれども。

小さくなって座学の講義を受けたあと、2か所ほど美術館を巡りまして、「専門用語を使わずにレポートする」というお題に取り組みました。(そもそも使えないよ!)この結果が、ビックリ、なんと100点までは行かなくとも、かなり良かったので、書に興味はあっても何が何やら。。という同士のために、修正してシェアいたします。こんな軽くていいなら、作品を観てみようかな、と感じていただけたらそれが嬉しいです。

高野切 第一種 https://idemitsu-museum.or.jp/collection/calligraphy/kana/02.php (2024年2月18日閲覧) ※実際の観賞作品とは異なります

濃淡を持った細い行が、まるで窓を打つ雨だれのように真っすぐ落ちる運筆。一行が一筋の雨のように見えるのは、文字幅が均一であり、書き出しに自然な凹凸を設けているからか。ほぼ薄墨で成立しており、その中でのグラデーションがまるで曇りの日の景色のような奥行を持つ。僅かところどころに配置された濃い文字は、窓を打つ雨粒のごとく目の前に現れる。
文字そのものが判別可能な点や流れ繋がる美しさは第二、三種とも共通しているが、この作品の特筆すべき点はその肩の力の抜き加減である。
墨を含んだ書き出し一文字目も淡からスタートしており、濃の字は必要最小限にとどめられている。あたかも、老人が声に出して歌を詠んだカタチのようである。力みはどこにも感じられないが、全体の濃淡の配分がこの作品を引き締めている。相当な卓越者か、練れた人物の手とうかがえる。


その後、今年となり先日の 本阿弥光悦の凄み|美恩 (note.com) 鑑賞の際に気づいたのですが、それまでとは書を観る気持ちが変わっておりました。読めなくて、いい。もちろん、読みたい、知りたい箇所は頑張るのですが、どんな風に筆を運んでいたのか、という方が気になるようになりました。
かくして、講義の結果は知識は増えずとも気持ちは軽くなっていたのでした。もう、どこでも気にしないで堂々と観に行っちゃう。

よく、デパートのお茶や食器売り場でおじさまが茶碗を前にたたずみ、スタッフに声をかけらるると「いや、なんとなくこういうのが好きだから。。。ごめんなさい」と去るシーンをお見掛けします。最近は身近なおじさまが「実は僕、刀剣がチョット好きで、〇〇博物館の〇〇は覚えている。それから、自分で包丁を研ぐんですよ。いや、ぜんぜんわかんないんですけれどね」と仰っていました。
なんとなくでも、わからなくても、作品を楽しむことをお勧めしたいです。


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