記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画「ルックバック」感想 「背中を見て」の題字・署名の筆跡について

映画「ルックバック」の鑑賞後感想です。
※映画未鑑賞、原作未読の方への配慮は皆無なのでご注意を。



藤本タツキ先生の原作漫画を読んだ後、SNS上の感想をいろいろみていった中で一番印象に残ったのは、物語上のifストーリーにおける四コマ漫画「背中を見て」の題字・署名の筆跡についての指摘でした。
その内容とは、「「背中を見て」の作者署名は「京本」だが、その作風・画風・筆跡は明らかに藤野のものであり、京本自身のものとは異なっている」というものです。

この当時私は、「背中を見て」の作風・画風・筆跡がすべて藤野のものとして描写された意図について、この四コマ漫画に帰着する「京本が非業の死を遂げないifストーリー」を、いわゆる並行世界において(その世界線の現実として)実際に京本が生き延びたという話ではなく、現実に存在する世界はただひとつであり並行世界など存在しない中で、単に藤野が自らの救済のために創作した虚構である、という説明をつけられる形に着地させるためだった、と考えました。
原作漫画「ルックバック」のテーマのひとつは、「虚構の物語が現実の人生を救い、傷を癒やすことがある(し、それこそが物語を創作することの意味・意義になりうる)」ということであり、そのために、だからこそ、「ルックバック」という作品の軸は、むしろあくまで(虚構と比すれば)現実の方に根ざしている必要があった(と藤本先生が考えた)のではないか、と解釈したからです。
(ただし、これはあくまで「説明をつけられる形」に留められていること──つまり、あれは藤野自身の創作による完全なる虚構であるとするのか、はたまた、確かに存在する並行世界の京本が、藤野への深い憧れから藤野の作風・画風・筆跡をすべてそっくりそのまま反映して四コマ漫画を描いたのだとするのか、その解釈は読者に委ねられている余地がある、ということもポイントだと思っています。)

そして、映画「ルックバック」を観て私が一番印象に残ったのは、原作では上記描写だった「背中を見て」の題字・署名の筆跡が、映画では完全に京本自身のものに変更されていた(ように見えた)ことです。(これが単なる見間違いでないことを祈ります。)

私はこの変更について、もちろんこれは映画「ルックバック」が意図的に行ったものであり、その理由は、映画「ルックバック」による祈りなのだと思いました。
それは、たとえば「虚構(の中の現実)」と「現実」が左右の二極にある定規の目盛りがあるとして、映画「ルックバック」が位置する場所を、原作「ルックバック」が位置する場所の目盛りから、ほんの少しだけ「虚構(の中の現実)」寄りに動かしてみる──そのような祈りです。

映画「ルックバック」は、藤本タツキ先生の原作漫画を基に翻案されたものであり、「ルックバック」という物語そのものに対する権利と責任は、あくまで藤本先生の手の中にのみあると思います。
そして、原作「ルックバック」は、どちらかといえば物語に対する責任から、前述のような相対的に現実に根ざした形で創作されたのではないかと私は考えます。
それに対して、映画「ルックバック」は、物語そのものに対する責任からは自由であることによってそれが可能になると思うのですが、映画という原作の翻案物の中で、物語の産みの親である原作者とは異なる立場から、原作への最大限のリスペクトと、原作をあえて変更する祈りとを、見事に両立させたのだと感じました。

映画「ルックバック」は、漫画とは異なるアニメーションによる表現、漫画には無い声やBGMによる演出などにもとても満足しましたが、一番は、その翻案のバランス感覚のすばらしさに最も感銘を受けた鑑賞体験でした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?