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美しい贈り物

祖母の背中を見て育ったような気がする。祖母の年代の女性は美しいと思う事が多い。
私が、割烹着が似合うようになりたいと言うと、「何言ってるの?」と祖母達は笑った。

朝起きて、顔を洗い三面鏡の前で少しお化粧をして、家の掃除を済ませた後、たまに喫茶店に行ってモーニングを食べに行っていた祖母。
美容院に行くのはお正月の前だけで、髪型は変えない。
家事をする時や台所に立っている時は鼻歌歌いながら、時間に追われずバタバタすることもなくドッシリした余裕を感じた。

今時エプロン姿でスーパーに買い物に行く女性はあまり見かけなくなったけど、エプロン姿や割烹着姿の女性が買い物しているのをたまに見かけるとホッとする。

私が割烹着を着て格好から入ったところで、真似にもならない。
あの年代の女性の気持ちが滲み出た美しさだったんだろうと思う。

私は女性だし美しい物は好きだけど、女性が美しいとか、美しくないとか、何から来るんだろうと若い頃から理解しようともしなかったし、もちろん今も全く分からない。

祖母が亡くなり、私は最近、祖母が作っていた料理の味が恋しくなった。
料理は趣味じゃなかった私だけど、覚えている味をできる限り再現してみたいと思い、台所に入り浸る時が増えた。
作った和菓子を仏壇に供えてみたり、家族に振る舞ってみる。

私は、祖母が逝ってしまったことを決して悲観ばかりしているわけじゃない。
未練は一切ないけど、もう祖母と話をすることも、商店街を一緒に歩くことはないんだと、日が経つにつれ実感してきた。
それを感じ出して、家にいて専業主婦だった祖母の存在した証拠のような物を出来るだけ残したくなった。
祖母のためじゃない。そうしないと私が虚しいという感じだ。「寂しい」じゃない。

祖母が亡くなってお別れをして、私の介護生活は終わり、私は時間に縛られず思うように何処にでも行けるようになった。
周りには「よく頑張ってお世話したね」と言われて、いわゆる「自分の人生」が始まった。

そしたら、自由にしろと言われても何か全然物足りない。この時の為に、介護をしながら取得しておいた資格も、祖母とお別れしたら自分にとって何やら分からない物になった。

つくづく私は、祖母あっての自分なんだと、実感した。
祖母のように綺麗な人になりたいと思いながら、正反対のガサツな性格で色々してもらってばかりだった私。

かなり昔、祖母が若い頃買った指輪のうちの一つを指にはめてみた。

「3つで千円」と祖母が言っていた、その指輪というのは、買った時最初は、汚れたような真っ黒な色をしていたそうだ。祖母の話では、コツコツと水仕事やらやっているうちに何年も経ってピカピカに光ってくる。

祖母がはめていた、「これだけは誰にもあげない」と言って外さなかったピカピカのその指輪が羨ましかった。
祖母のつけていたその指輪に比べて、自分がつけているちょっと高い指輪の値段とか何だか余りにあっけない数字だけのものに思えた。

いつかその「3つで千円」のうちの一つなのか、祖母の三面鏡を、気まぐれで掃除したら、黒い指輪がコロンと出て来たのだ。
私がその指輪をはめて、しばらく経って、祖母は亡くなった。

最近、鏡を見る代わりに、気がついたらふと指輪をつけた手を見る事が多い。手を見て祖母の手を思い出すのが何だか嬉しい。

手のケアをする性分じゃなかった私は、ハンドクリームを塗るようになった。
なんだかんだ言って私が欲しかった物を、また祖母はくれた気がした。
真面目で道を踏み外す事がなかった祖母が、欠点の多い私を助けてくれているみたいだ。

「本当にもういいから。」「今度こそ自分でやってみるよ。」という気持ちで、仏壇を拝むと、前にある写真の祖母が相変わらずニッコリ微笑んでいる。

私は祖母の生き方を真似は出来ない。ただ、気持ちを磨く事を心がけて、いつか、祖母のように輝いた人間になりたい。

ここまで読んで頂きありがとうございます♪




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