フォレストガンプを見た

今日は寝起きが良かった。なぜなら昨晩ヤクルト1000を飲んだからだ。あれはめちゃくちゃいい。本当に信じられないくらい体が、脳が働いている。目覚めもバッチリだった。6時に起きた。することがないので久しぶりに映画を観ることにした。Amazon primeのドキュメンタルで、チョコプラの長田がフォレストガンプのTシャツを着てて、それがなぜなのかは明かされぬまま負けてたのがなぜか印象的だったので、フォレストガンプを観ることにした。こうやって映画を観るというクソ小さなアクションを起こせたのはヤクルト1000のおかげだ。そもそも私はほとんど映画やアニメや曲などを見たり聴いたりしない。手の込んだエンタメを観るにはそれ相応の姿勢が必要だと思っていて、姿勢を正すのは少しタフな所業だからだ。だから楽な姿勢で見ていられる、バラエティ番組やどこかのYouTuberの動画や芸人のラジオなどを見るのが日々の習慣としてある。しかし、そういったものを観ていると必ずと言っていいほど、映画の例えで笑いを取っている。その元ネタを知らないと笑えないことも多いが、そうとも限らず、脚注があれば全然笑える。しかし、ラジオなんかを聴いていると、今週はこのエンタメを観たとか、そういう話をするパーソナリティが多く、また映画を鑑賞することは、努力の一つであるかのようにもてはやされている気がする。まぁ面白い人はアンテナを高く張り、また腰が低いというから大事なことではあるんだろうなと思いつつ、けど俺は全くそういうものを努力とは認められず、やはり何かのながら見で観れるバラエティばっかりを見ていた。しかし、今日のコンディションがいいのか、重い腰を上げるような意識もなく映画を観ようと思えたし、実際観てみたら良かった。また、そうやってアンテナを高く張ることは人生を豊かにするし考え方も広がる事が実感できた。
映画からは話が逸れるが、最近つくづく思うことがある。それは、ちゃんと働いたときほど健康的で安価なご飯を食べる一方で、働かずにダラダラしているときほどジャンクフードを好む傾向が俺にあることだ。これは不思議。普通、しっかり働いたら、疲れた分自分を甘やかして不健康的だけど心から欲したくなるような上手いものを食いたくなるような気がするが、その考えは全く真逆で、安くて健康的なご飯を選ぶ傾向がある。おそらく、働いたときは自分を律しているからなのだろう。昨日は久しぶりに働いた。帰りに羊羹とヤクルト1000を買ったし、すき家の並盛を食べた。一方、クソニート期間がここ一週間くらいあったのだが、その時はほとんど毎日ピザやマックをデリバリーで頼んでしまった。相当な額を注ぎ込んでしまったし、今までだったら食べられた飯の量では、多すぎると思うような状態になっていた。つまり食が細くなっていて、そういう話はよくおじさん芸人が話しているので、俺は二十歳でもうおじさんの仲間入りなのかと肩を落とした。だから、健康的で長生きするにはちゃんと働いた方がいいってことが分かった。  
話はフォレストガンプに戻そう。これはざっくり言えば、ある一人の男の激レア人生を描いた映画だ。激レアさんを連れてきたみたいな内容だ。バス停でフォレストガンプが過ごしてきた壮大な自分史を語るという物語。義足だけど、いじめっ子から逃げる時に奇跡的に足が復活。走る力で大学アメフトの全米代表に。そして印象的なのはこの映画では数々の、襲撃された著名人が映像で出てくる。ケネディやビートルズのジョン・レノンなど。あれは本人ではないだろうけど、本物に近くて驚かされる。あれは何だったんだろうか。そして、ジェニーの存在。ドラックやセックスに溺れ、多数の男と関係を築いたものの、フォレストガンプの一途な愛で晩年、結婚し子供を産み、亡くなっていった。愛する人の存在が彼に生きる力を与えていた。彼はベトナム戦争に繰り出される。そこでエビ漁師一家の親友と出会うがその彼が戦死。一方頼れる少佐を助けるが、その少佐は両足が無くなる。少佐は両足のない人生より名誉の死を遂げたかったと、救ったガンプを恨むが、彼をエビ漁船の一員として招きそこで大金を稼ぐと、救ってくれてありがとうといったシーンは感動的。果樹園に投資したから大金を得たというのは、Appelの事というジョークもある。また、よく言っていたのは、チョコレートの箱は人生みたいなもの。空けるまで何があるかわからない。という母の言葉。その言葉通り、彼の人生は波乱万丈そのもの。謎に2年間ほど走るのは、ジェニーのアドバイスに従い、彼女のことを想うためであったのだろうか。あの謎の大衆の前でのベトナム戦争に関するスピーチでマイクを切った男は、戦争の美談を語らせないためであるのか。アメリカのニュースが流れるシーンでは、多くの大統領が銃撃されていた。それなのに大統領になる人が後を絶えないのはなぜだと思ったが、そりゃリーダーになりたいやつはいるわな。ジェニーへの愛からか、近寄る男には正義感が強かった。母の死も描かれていた。そういえば最近、お世話になった大学の先生が亡くなっていた。55歳という若さで。彼には顔を覚えてもらっていた。よく質問していたからだ。しかし、以前バスでたまたま会った。しかし、どうせ覚えてないだろうから迷惑かなと声を掛けなかった。それが彼との最期だった。大学のホームページに小さくそのことが書かれていた。この前蛭子さんの本を読んだ。そこには、死んだら何もなくなるって書いてあった。それを読んだとき、いや死んでも死後その人の作品が評価されるみたいなことは往々にしてあるのになと少し反対意見を持ったが違った。本当に何もなくなる。その教授の死でそれを実感した。来週母方の大ばぁちゃんの法事がある。俺はそこまでその大バァちゃんとの思い出がない。しかし彼女が死んだとき、大粒の涙を流した。隣で妹も同じように泣いていた。近い人の死は、心のなかでその人のことを想い続けるから残るが、他人の死は本当に何でもなくなる。単純にいなくなるだけ。その部分がすごく儚い。そんなことを思い出させた。あと、家族ということに関して、僕は一生をかけて償い続ければいけない罪を幼き頃犯したことがフラッシュバックしては顔面が蒼白となる。妹への仕打ちだ。彼女は今でも俺のことを嫌っている。ラインもブロックしている。けど、そう嫌われてもおかしくないことをしたことが鮮明に戻ってきて、俺の心を切り裂く。あれはどうやって償おうか。おそらくいくらお金を積んでも彼女の心は晴れないだろう。このことを思い出してゾッとしたのは、ひろゆきの動画を見てから。ある女性からの、兄に恨みがあるから結婚式に行きたくないという相談に対し、その兄に過去にされたことを結婚式のスピーチで堂々と話し、社会的に恥を晒せばいいというアドバイスを受けていた。そんなことをされるかもしれない俺は。だから、親族を呼んでの結婚式は開きたくない。しかし、今は気持ちとして金を贈るしかないかと思っている。
なんだか重たい話になってしまったが、フォレスト・ガンプを観て、そんな事を思い出した。観た事ない人は是非見てみてくださいな

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