ゼロの答え

 私は今トイレの中にいる。便器の中ではない。お腹が弱いので人よりトイレにいる時間が長い。決してスマホゲームをしているわけではない。あ、文章書いてる…自宅なので勘弁してもらいたい。
本当に知りたいことは答えがないので自分で見つけるしかない…と誰かに言われたわけではないけれども、年齢を重ねるごとにそう思うようになった。
 おっさんに近づいている。おっさんといえば、この間大泉洋さん主演の映画を観に行ったんだけど、号泣はせずともしばしば涙ぐんで「あれ?こんなに涙もろい奴だっけ?もっとドライな奴のはず…」
 しばらく平静を装って生きてきたが、しょうもない事で喧嘩し、しょうもない事で怒られ、しょうもなく泣くことが多々あった。
 話を最初の方へ戻す。「答え」がないことに不安だった。思い出すのは中学、高校時代。数学が苦手だった私は教科書の答えが載っている「教科書ガイド」なるものを悪用していた。考えても考えても分からないので、答えを丸写しして日々を乗り越えていた。
 しかし、時には丸写しの細かいところを突っつかれ、結局授業中に指名されて答えることができないあの嫌な空気を味わうことになったのである。
 何でもそうだと思うのだが、自分でやったことじゃないと身についていないというか…最近の話では、「言葉の接地」って大事だなとぼんやり思ったわけである。
 20歳の部下がやって来た。思わず「最近の若者」と表現したくなる。やんわりミスを指摘すると「スミマセンハイワカリマシタ」と秒で返ってくる。その数日後似たような間違いを繰り返す。
 以前であれば語気を強めて叱ったり、問い詰めたりしていたが今はしない。何度も一緒にやり直す。不貞腐れているわけではないようだが、興味がないのかもしれない。
 自身にも言えることだが、才能がなかったり興味がないことに時間を費やしてもなかなか芽は出ない、というか出るはずがない。そういえば先日お会いした理学療法士の先生がこんなことを言っていた。「海外では例えば肩の可動域が狭い場合はっきりとそのスポーツが向いているか向いていないか伝える。」
 残酷であるが伝えられるべきか伝えられない方が良いのか。向き、不向き、身体の状態、結局決めないといけないのは自分自身だった。
#創作大賞2024
#オールカテゴリ部門
 


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