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VERITAS LIBERABIT VOS(J・8:32)

3年ぶりに開催された、ツールドおきなわが終わり、僕の10年間のおきなわの旅も終わった。随分と長くなってしまったが、それは必要な時間だったのかもしれない。

始めはレースをしに行くのではなく、豚の丸焼きを食べるのが目的でノコノコついて行ったのだから何がきっかけとなるかわからないものである。その日から旅の目的は、自分の自己肯定感の欠如を克服することになったのだが。
今年なんか豚の丸焼きが無かったからな、最初の目的からいったら何のために行ったんだってなるところだったよ。


繰り返しになるけど、いや、永かったなぁぁぁ、と。
そして、こんなに長くなったのは、求めるところがズレていたことにあるのかも、と考えている。それは、自転車レースの価値観や文化もあり、自分の自身を追込むことを是とする価値観にも要因があると考えている。

今回、運よく目標を達成してみて気付いたことがあり、自分の整理として記したい。

*目標設定は目的のために適性であるべき

*結果を求めることは大切だが、拘泥してはならない

*自分を知れば、もっと自由になれる


目標設定は目的のために適性であるべき


自分は生まれつきや生い立ちにより若干の強迫性向があり、自分を甘やかすことを極端に嫌うところがある。しかし同時に意思が弱く、スキあらば甘やかそうとする。
そういう中で、自分を認めるには「手を抜かず、全身全霊で取り組むナニカ」が必要だった、いや、そう思い込んでいた。
そんな僕に「ツールドおきなわ」はうってつけだった。誰にもわかりやすい難易度、誰しもがそこに向けて全力を尽くしているという共感。

そこで「自分が全身全霊で取組み、尚且つ運が良ければ獲れる成績」を基準に目標を設定し、それが達成できれば、自分を認めることが出来、自分に対して少し優しくなれる(他人にももっと優しく)と思っていた。
その目的のために、この設定基準が適性だと信じていた。

そこで、市民100km優勝を掲げ、意識を集中することになった。それで3位になることは出来たが、それで自己肯定感を得ることはなかった。
自転車レースには1位以外は全て敗者という価値観があり、それは文化となっている。この価値観に強く影響されていたため、3位は敗者でしかなかった。
では、下位カテゴリで勝てばいいかというと、それは先に挙げた基準とかけ離れており、全く価値は見いだせなかった。

今回マスターズ100kmで3位という結果は、そこを目標として設定し追い求めてきたものであり、非常に満足している。敗者であることは認めるし、悔しい気持ちはあるが、それとこれとは全く別物として認識出来ている。
なにより、OCPDを完全に克服したとは言わないが、ずいぶん「良い加減」で生きられるようになれたと思っている。

そして今思うのが、「自分が全身全霊で取組み、尚且つ運が良ければ獲れる成績」という基準は適正だったんだろうか、ということである。

この基準は、達成水準を自分の105%に設定することで、沖縄のスタートラインを切る時点で100%手を抜かずにきていないと達成できない目標にする、という考え方である。自分の100%を目標に設定していれば、95%でも残り5%は運で達成できてしまうかもしれない、そうすれば努力だったのか運だったのかわからないのである。
これまで、大真面目にそう考えていた。それもこれを達成しなければならない、と考えていた。運次第なのにMUSTという矛盾には気付かなかった。

今思えば、これぞOCPDだなぁ(苦笑.というところである。自覚しているようで無自覚にやってしまっている。
自覚はあるので、N村くんと「やりすぎ注意」「真剣と深刻は紙一重」「義務は無邪気に勝てない」と、お互いに注意しあっていたが、自分は抜け出せていなかったようである。

結果を求めることは大切だが、拘泥してはならない

今回、本当に運よく目標を達成してみて、目標を達成した事実はそんなに重要じゃないと気付くことが出来た。そして、達成しなければならないことなんてないし、それに縛られて自由を失っていたな、ということにも気づけた。

周りを見渡せば、自転車乗りは自分に厳しすぎる人が多いと感じる。自分を追い込むぶん、自分に甘い他人をみると許せないようで、炎上させているのをよく目にする。
そこは、もう少し無理のない目標設定で、達成感で満たされるのがいいんじゃないだろうか。
そうすれば、少し、他人にも優しくなれるはず。

とはいえ、それで納得できるのかどうか、難しいところではある。これらの知見を持ったまま以前に戻ったとして、不器用な自分にそんなバランスがとれたのかというと、、、ちょっと無理だったかも、とも思う。

自分を知れば、もっと自由になれる

今は明確な目的もないため、次の目標やその設定基準は決まっていない。

しかし、そこには不安も焦燥もなくて、「手を抜かず、全身全霊で取り組むナニカ」はもう必要ないことに気付かされる。

きっとそのうち、内なるモチベーション(重複表現?)が湧いてきて、追い求めるものが出てくるという予感がある。
そして、そのときは今までよりもっとずっと自転車を自由に楽しめるという確信がある。

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