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ヤングケアラー(の何を、私たちはケアすべきなのか)

僕はあなたに感謝します
小さくふにゃふにゃな僕を お湯で洗ってくれてありがとう
そのふしくれだった手の温度がなくては
三歩と歩けず立ち止まってしまう僕を
外へと連れ出してくれてありがとう
線路わきの金網ごしに
いつまでも 電車が走るのを見せてくれてありがとう
なんにも知らない僕をとなりに座らせて
お経の読み方を教えてくれてありがとう
おたふくみたいな顔をして笑わせてくれて
ありがとう
おみやげにプラスチックの日本刀を買ってくれて 
ありがとう
でも
僕はいつのまにか 線路わきで電車を見なくなりました
お経の読み方も忘れてしまいました
プラスチックの日本刀も なくなってしまいました
僕は すっかりぼけてしまったあなたのことを
どなりつけ
あざけり
さげすんだ
眠ってくれないあなたの前に土下座して
お願いだから寝てくださいと 泣きながら頼んだとき
あなたは繰り返し僕に言った
「悲しませてすまないけれど、
 あたしが何をしたって言うんだい?」
僕はさらに激しく泣きました
僕は お願いだから寝て下さいと泣いて頼みながら
心の中では
お願いだから死んでくださいと 叫んでいたのです
ごめんなさい
あなたが死んだときは 涙ひとつぶ流さなかったのに
今ごろになって ごめんなさい
僕はあなたに あやまります


*****

若い時分の文章は全般、今になって読み返してみると
恥ずかしいという気持ちしか湧かないのだが、
二十歳の頃に書いた、祖母の介護についてのこれだけは、
本当のことが(叩きつけるように)書かれている感じがする。

子供の頃、同居していたのは母方の祖母である。
明治32年(1899年)福井生まれ、
女学校を出たあと、家どうしの取り決めにより
北海道・岩内の、漁師の網元へ嫁いだ。
7人の子を産んだ。
上の6人が息子(半分は戦争で死んだ)、
そして7人目が娘で、私の母だ。
戦後、網元の経営悪化、夫との死別などを経て、
1960年代、六男の就職先だった大阪へ、娘とともに転居。
その後まさしく「なんやかや」あって、
(大阪で就職したと思っていた六男が役者になっていたり
 網元時代の連帯保証人案件で借金取りに追いかけまわされたり
 娘が在日朝鮮人(私の父だ)と恋愛結婚することになったり
 とにかく枚挙に暇が無いのだが、とりあえず本稿では割愛する)
そうしてどうにかこうにか
兵庫尼崎、五軒つながりの長屋で娘夫婦と同居を始め、
そして1975年(昭和50年)、孫の私が生まれた。

祖母にアルツハイマー型認知症の症状が出始めたのは、
私が中学に上がったあたりからだった。
当時、父と母は大阪梅田・堂山の雑居ビルでバーを営んでいたのだが、
父は体調を崩して入退院を繰り返すようになっており
(明らかにアルコール依存症で、私が17の時に死んだ)、
店は、母がひとりで切り盛りするようになっていた。
必然的に、私は学校から帰ったあと、
夕方から仕事に出る母との交代で、祖母の世話をするようになり、
それは高校を卒業するまで続いた。

当時はそのような言葉はまだ無かったが、
典型的な「ヤングケアラー」である。

さて、
それらの経験が私を強くしたかというと全く違って、
私は逆に弱くなった。
介護の終わりは結局、家族の死であって、努力が成果に結びつかない。
そこに「看取り」と名を付けて
何がしかの気づきに接近できるケースなら幸運だが、
精神の疲弊にも不可逆な境目があり、不可逆に削られれば障害となる。
祖母の介護は、私の長い抑うつの原因となった。

ただ、今にしてみれば
介護そのものにも増して
私に長い抑うつをもたらした最たるものは、
私による介護を、周囲が「当たり前のこと」として扱ったことだった。

「偉いなあ、立派やなあ」と言う大人たちはたくさんいた。
中学の全校集会か何かで、当時の教頭だか何だかに
気持ち悪いくらい褒められたこともある。
(そんなことを私は望んでいなかったし、
 その後、祖母の手を引いて近所を散歩している時などに
 出くわした同級生から「ほんまにやっとるわー」などと嗤われたりした)

だが
「こんなことを子供にさせるのは本来間違っている。
 これは子供の仕事じゃない、大人の仕事だ」
と言ってくれる人は、ただの一人もいなかった。
それは親にしてもそうで、
祖母が亡くなったあと、母は無邪気に
「いろいろあったけど、こんなにいい子に恵まれるなんて
 やっぱり神様が帳尻あわせてくれてるってことかしらねえ」と
私に向かって言ったことがある。

当然のことながら、帳尻をあわせてきたのは神様ではない。
私だ。

郷里の尼崎は私にとって、帰りたい場所ではない。
そこで暮らした時のことを思えばいつも、
鼻の奥には、
祖母の部屋に置いてあった介護用便器の消臭剤の揮発が蘇り、
それはいつも、今の私からいくばくか生気を削り取る。

祖母を看取った母も、八十をとっくに超えた。
私自身は、母の介護で疲弊するのは御免だし、
自分や妻の介護で疲弊する息子も見たくない。
元も子もない話だが、カネが大切と肝に銘じている。

しかし、昨今の社会の様相を鑑みるに、
さまざまな事情から
家族の介護を担わざるを得ない子供たちは、今後も増えていくだろう。
私自身が代わってあげることはできない。
地域社会が十分に代わってあげることも、現実的には難しい。

ただ
「本来は大人の仕事なんだ。
 それをさせて、本当にすまない」
と、詫びるデリカシーだけは、持ち合わせていたいと思う。

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