織田信長:LGBT史観による本能寺の変

「信長殿の所業は許しがたい」。そう明智光秀は考えたのであろう。

正妻である濃姫との間に子供ができないことをいい事に、あちこちの側室に数多くの子供を作っている。これはお家の存続を図るための必要な行為であるから、淫乱などということはできない。

しかし、信長殿の周りをウロウロしているあの稚児連中はいったいなんなんだ。戦いの場で力を発揮しているわけではない。戦いの場では敵に後を見せることすら恥辱とするが、あの連中は背中ばかりか尻まで丸出しにしている。あんな連中をのさばらせる信長殿は許せない。

…というような事情で本能寺の変が起きたなどと主張するのは、野蛮なローマ帝国の末裔の国々の歴史をそのまま日本にあてはめた結果であろう。

日本でも中国でも、性に対して寛容であった…と言えばもっともらしいが、要するに相手が男であろうが女であろうが構わず、穴に突っ込むのが好きな奴が多かったということ。
日本の歴史であろうと中国の歴史であろうと、権力を握った連中の行状を見れば、かなりの割合で男女を問わず突っ込んでいる。曹操しかり、信長しかり。

男色を固く禁じていた西欧諸国とは違い、明治以前の日本では男色はごく当たり前のことであった。男色だからと言って非難されるわけでなく、日常茶飯に行われていた。一つだけ例を挙げれば、あの『東海道中膝栗毛』の主人公のやじさん、きたさんは芯からのホモ達である…
金持ちの栃面屋弥次郎兵衛(やじさん)が旅役者抱えの鼻之助(元服後改名して喜多八=きたさん)に打ち込み、「この道に孝行ものとて、黄金の釜を掘り出しせし心地して悦び、戯気のありたけをつくし、果は身代に迄途方もなき穴を掘り明けて留め度なく、尻の仕舞若衆と二人、尻に帆掛けて府中の町を欠落(かけおち)するとて..……」で『東海道中膝栗毛』は始まっている。


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