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エッセイ:発達障害の本質的な問題は少なくとも名前ではないよね

時折インターネットで話題に上がることがある発達障害。「発達障害を隔離せず一般生徒と
共に授業を受けさせるべきだ〜」とか「隔離は差別だ〜」とか「そもそも名前を変えるべきだ〜」とか議論されているのを見かけますが、安易に統合に向かわせれば解決する話でもないと思っています。むしろ悪手かも。もうちょっというなら、産まれた年が同じというだけで同じ空間に閉じ込められて共同生活を迫られる、学校という制度が悪い。

これから先に綴られる文章は、発達障害だと診断されていない人間が書いた文章です。それを一度頭の中に入れた上で読んでね。これが読めない奴は帰れ!

さて、私は自分の精神の成長が3歳ほど遅れていると認識しています。具体的な病名とかはわからないし、発達障害ってそれらを総括した言葉だと思うけど、とにかく遅れてるというのを肌感で感じています。
自分が「遅れ」を感じとったエピソードはたくさんあるのですが、出せる範囲で一つ出させてもらいます。一応閲覧注意。
私が通っていた小学校では、定例的に5年生から6年生に進級する際、担任が変更されないきまりがありました。5年生の頃の担任(A先生とする)は、まっすぐで生徒思いなところがあるけれど、それが思春期を迎えた生徒には煙たがられているような、そんな先生でした。それが6年でも続くだろうというのは、みんなが予想できていました。
担任発表の刻。予想通りA先生が6年の担任に選ばれました。僕は大手を振って喜びました。予想が的中し、嬉しかったから。ですが、息つく間もなく聞こえてきたのです。後ろ側から聞こえてくる「え〜〜〜」という大衆の言葉が。みんなは嫌がっていたんです。ウザい担任ともう1年付き合わされる羽目にあうのですからね。喜んでいたのは僕一人だけでした。慌てて嫌がる表情をしましたが、もう遅かった。担任発表から周りの反応が出揃うまでのたった3秒程度の時間で、これまでにないくらいの「劣等」を感じたのです。
放課後、A先生からは「担任発表の時に喜んでいたのはあなただけでした、ありがとう」と告げられました。それも苦しみにしかならなかった。なぜ周りと比べて劣情を抱く人間に対して「劣っていてくれてありがとう」などと感謝の言葉が湧いてくるのだ!と怒りさえ感じたのを覚えています。
発達障害を左利きに例える意見も見かけましたが、それと決定的に異なるのがこの点なのですよね。左利きは持っていたとしても劣等の証明にはなりえないし、それを覆せるだけの魅力があります。が、発達障害はただ遅れを取るだけの重りにしかならず、その重りを覆せるだけの魅力にもなりません。少なくとも学校という閉鎖された社会で、発達障害を持っていても足枷にしかならないのです。そしてそれを教えてくれる人間さえもおらず、中学も高校もろくに行けずに社会からドロップアウトしてしまった訳なのですが…。

「発達障害を隔離して勉強させるのは差別だから、みんなと一緒に勉強させよう!」という意見は、どうしても、当人たちの心情を軽視した、大人が自分たちのエゴを押し付けてるだけの意見に見えてしまうのですよね。


とはいっても今のままではこの言葉は健常者の戯言にしかならないのですよね。つまりは説得力がないと。ですので、近いうちに米青 ネ申 禾斗に行って今までさんざん苦しめられた諸悪の根源にケリをつけるつもりです。そこでクロの判定が出れば過去の自分の行いに証明がおりますし、シロだったとしても、雑念を振り払って自分が得意な分野を伸ばす行動に専念できるようになるのですから。
でも黒歴史を掬って俯瞰する文章を書いたせいで今ストレスがヤバい!だから今日はもう寝る!

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