裏側

 私は小さい頃の父との記憶がほとんどない。どちらかといえば寡黙な父。仕事は泊まり込みもあったが、休日は家族で公園や叔父さんの家に行くなどいろいろなところに連れて行ってくれた。スキンシップはもちろん、何か褒めてくれたり、励ましの声をかけてくれたり、そんな記憶が全然ないのだ。それを不満に思うわけではないのだが、それくらい私の中の父親像はひどく曖昧なものだった。
 大人になって働くようになってからわかった。仕事ってこんなに大変なんだ。
いつだったか、「疲れて帰ってからのお風呂はこんなに気持ちいいのか、というのを始めて味わった」と電話で話したら、父は穏やかに笑ったような気がする。

 4人の子供を養うのはどれだけのことなのか、今の私には想像もできない。その上、大学に進学するときに独り暮らしをしたいと言えば、その通りにしてくれた。私が滑り止めで受けた私大のバカ高い受験料も何も言わず払ってくれた。さらには、コツコツ貯金したお金を「自分で好きなようにしなさい」と渡してくれた。私だけではなく兄弟4人全員に。
 私はお金を儲けるということに、とても抵抗があった。お金への欲望によって人が変わってしまうから、自分も変わってしまうんじゃないかと怖かった。
 母が父に「お父さんはケチだから」というものだから、ケチはダメなんだと思い込んでいた。
今思えば、私たちを養うために工夫していたのだ。今でも父は値引きされた菓子パンが好きだ。安いから、という理由で。

 どうして、どうして。
 今の私があるのは父の愛情のお陰だった。

 そんなこと気づかずに、今まできちゃったな。

 不満があるわけではないと書きながら、盛大に不満だった。

 どうしてもっと可愛がってくれなかったの。抱き締めてくれなかったの。私が辛いとき声をかけてくれなかったの。
 私は愛されなかったと勝手に思っていたらしい。そんなこと思ってないフリをしながら、心の奥底で叫んでいたらしい。


 直接声をかけることだけが愛じゃない。抱きしめて大好きと言うことだけが愛じゃない。
 見えないところで、私じゃないだれかのために、社会のために、地球のために、あるいは小さな何かのために、一生懸命になることがどんなに尊いことなのか。

 とりとめもなく、感じていること。

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