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平安時代の実態 平安京は巨大なトイレだった!


平安時代の「都会モン」の実体



平安期の日本の全人口は600万人程度であったらしい。
そのうち平安京に住んでいた「都会人」は10万から20万人ほどであったらしい。
その10万から20万人のうち、「貴族」に属する者はせいぜい千人ほど。
残りの者はすべて貴族の従者、貴族やその従者相手に日用品や食料を商う者、あるいは芸能を提供する者、つまり庶民階級であった。
都で排出される糞便は、その実は庶民のものが大半だった
上流階級は屋内の簡易便器に排泄し、使用人に始末させる。
では庶民はどのように始末していたのだろうか。

そもそも大和言葉で便所を意味する「かわや」は、「川屋」である。川の上に建て、流れで排泄物を押し流す自然の水洗トイレである。そんな水洗便所の近隣で獲れる川魚は「糞を食った魚」として忌まれることもあったようだ。
あるいは野外にしゃがんで排泄する。自然愛好家の間では「雉打ち」「お花摘み」と婉曲に呼ばれる行為。いわゆる野糞である。
以上は川や野原が残る郊外の場合。では「都会」である平安京の庶民はいかなる場で排泄していたのだろうか。答えは「路上」である。

「餓鬼草子」にえがかれた平安京の実態

この世には人の目に見えざる怪がある。
忍び寄りては害をなす。
華やかな栄華の宴に
新たな命が生まれ出るその時に。

忍び寄りては幸福を、幸をむさぼる。
その名は「餓鬼」。

生前に置いて増長、膨満、貪欲の罪を犯したものが死後に堕ちる地獄は「餓鬼道」
手足は肉落ち、そのくせ腹のみは膨れ上がる。タンパク質欠乏症患者の典型的な容姿となって現世を彷徨う。
川があっても、水が飲めない。
慈悲ある者から施された食物は瞬時に炎になり、永遠に飢えを満たせない。
運よく食物が口に入っても、喉の極端の細さが災いして胃の腑に落ち込まない。
こうして永遠に苦しみぬく運命。
飢えに苛まれつつ、人の目にも触れることなく人間世界を彷徨っている。

平安時代末期に描かれた絵巻物「餓鬼草子」。
「枕草子」「源氏物語」とは対極の平安京の暗部を余すことなく書き表している。

たとえば下の図。

絵の主題は「食糞餓鬼」。
人間の排泄物のみを喰らって生きる餓鬼のすがた。

都の小路はそのまま「お便所」だった

平安京の下町の路地に人々が集って、おのおの「排泄行為」をしている。
杖で地面を突いてふんばり、あるいは「ウンコ座り」の姿で路上に排便している。地面には排泄物に加えて紙や木片が散乱している。紙は言うまでもなく当時のトイレットペーパーだが、木片は籌木(ちゅうぎ)と呼ばれるもので、排泄のちに尻の周りの汚れを掻きとってきれいにするための木片である。紙が貴重だった古代は一般的な生活用具だったが、紙が安価になるにつれすたれていった。平安、鎌倉期は便所の後始末が籌木から紙に代わる。その過渡期を描いた絵画資料として貴重ともいえよう。

そして人物がみな裸足や草履ではなく高下駄を履いている。
これは排泄行為のために、足を汚さないための用心だ。つまりこの地は「排泄専用の小路」であったことが見て取れるわけだ。
だが平安京は広い。貴族からその下働きまでも含めれば、平安京の人口は前述のように十数万人に達したという。
広い平安京
十万単位の人口
街区のそこかしこに、排便専用の場所があったのだろう。
当時の人とて、「糞は不浄」との意識こそ有していた。
だから家の中で排泄せず、戸外の街路に排泄していた。
当然ながら悪臭元となり、雨が降れば溶けて流れ、生活水にも混じって疫病の元にもなりうる。

平安京に蔓延する疫病は、ケガレは、住人そのものが製造したものだったのだ


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