音声送信されている人間のとる行動について(無視しないのが集団いじめの心理)

思考盗聴されている人間にとって、その音声を送信されている人間は大抵が何かしらの反応をする。何年とその音声に曝されているのに懲りずに反応するのである。いちいち心の言葉が本心と一致していると勘違いしながら、送信されてくる内容を相手の真意と受け取って反応を返す。

こちらとしては何を心の中で言っても、聞いてはならないことだからと何も思わず、表面上の一切の変化がないことを期待しているのに、反応することで音声送信(されている人にとっては自身が被害者という認識である)を受けている同志との結束を強めることに徹している。それは思考盗聴・音声送信の被害を終わらせることとは真逆の、市民の中での対立を生む格好の姿となっている。よって思考盗聴・音声送信を行っている組織の思う壺である。

いっそ開き直ってなんでもかんでも心の中で言いたい放題のままにすればいいと思うことはある。そうしてより反発されることは文句の対象がお門違いだといいたい。友達0人でも心の言葉をガン無視してくれる人だけ残ればいいかと思ったりする。人の優しさ(こっちの苦しみを考えて対応も考えてくれること)に期待することは、特に私が居る環境がそうなのかもしれないが、私の落ち度なのかもしれなかった。

普通の幸せを望めない身体にされたから、気が狂ったことを理由にして、行動に異常をきたすのは私の流儀ではない。もうこの狂った世界を軸にしてどう生きていくのかが問われる段階に入っているのだと思う。そして私はいつも四面楚歌の対象であり続け、加害者たちの望む孤独からの貧困や暴力に立ち向かい、自分の気が狂わないように、心の中できちんと暴言を吐き続けることが心身のバランスを保つということなのだろう。

今までは抑え込むことが美徳だと思っていたが、孤独であることに変わりはないがすべて自分の身体には吐き出す自由を与えることが必要だと気が付いた。そうして得た孤独を恐れることなく、自分の世界に没頭できるものが何かあればそれが幸せなんだと思う。

私にとっての人生の課題は思考盗聴がスタンダードであり、それに対してどう向き合っていくかということである。他人のことを考え、怖れ続ける限り、自分自身は幸せにはなれない。自分にとって陰陽のバランスはきちんと取るべきであるから、とことん陰惨な内面での毒づきは辞める必要はなく、表面がちゃんとしていれば、それが自分なのだから何か後ろめたく思う必要はない。

毒づくことは終わらない。音声送信される側も数は一対多数であっても、それぞれの人生であり、それを嘲笑するだけに費やすかどうかも、その人それぞれ次第である。ある程度の節操は保ちながらも、ねじれた両面をわざわざ隠す必要はない。それが他人の人生を生きるなということである。自らが主役となる人生の歩み方は他人の目をどう捉えるようにするかにヒントがあると思う。

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