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潰れていくランナー①中学編

こんにちは。
私は現在、大学で長距離をしている者です。
私は長い不調が続いており、現在も試行錯誤しながらトレーニングに励んでいます。そこで、どのようなアプローチをしてきたのかをご紹介します。少しでも私のように不調に苦しんでいるランナーの方の参考になれば幸いです。

今回は私の中学までの運動歴やエピソードをご紹介します。中学は順調に記録が伸びていき、自分で考えてやるメニューはなかったので参考になることはないと思いますが、この中学の経験を知ってもらうことで私がどれだけ不調になったのかより分かってもらえると思います。おそらく中学は上手くいった経験がある人は多いのではないでしょうか?

私は小学3年生から野球を始めました。中学生でも野球を続けました。しかし、通っていた中学は駅伝が強く、そこそこ長距離走が得意だった私は、7月にある駅伝部結成会に参加しました。目的は高校で自転車競技をしたいと思っていたので体力作りのために軽い気持ちで入部をしました。最初の練習は確かグラウンド(300m)を10周でした。ゆっくりでしたが本当にキツかったです。その日にもうやめようかと思いました笑。部員は確か50人くらいはいたかと思います。いろいろな部活から参加していてとても雰囲気が良かったです。もちろん練習はきつかったですが、どんどん走れるようになっていくのが面白かったです。私の中学では全国クラスの選手がいました。軽やかな走りで全く手は届きませんが、この人みたいに速く走りたいと思うようになっていきました。夏休みは朝7時ごろに練習を開始し、練習が終わってから自分の部活に行っていました。なので野球部の練習は疲れた状態で行っていました笑 この駅伝部では夏休みが終わっても朝練習があり、放課後の練習もありました。それが終わってから野球の練習をしていました。10月の中部予選では私はメンバーに選ばれました。3年生が多かったチームでまさか自分が走れるとは思ってもいませんでした。そして、何区を走ったか忘れましたが、9分50秒くらいで区間2位でした。チームは優勝しました。そこから県大会に向けて少しずつ走力をつけていきました。とにかく強い先輩にくらいついていきました。その時はきつかったですが、楽しさが優っていました。
やがて県大会では2区を任されました。確か9分30秒だったと思います。区間2位でチームとしては2位でした。惜しくも優勝を逃し全国大会への切符を掴むことができませんでした。それからは駅伝部としては解散になります。しかし、朝練習は陸上部が毎朝行っているので参加していました。2年生になり、夏にまた駅伝部が結成されました。朝練だけ続けていただけでもかなり力はついていました。先頭を引っ張れるくらいになり、走ることが楽しいと感じるようになりました。そこで私は陸上部に転部することを決めました。正直野球は好きでしたが、あまり熱が入っておらず陸上の方が活躍できると思ったからです。転部してからは午後も走るので力はどんどんついていきました。駅伝の中部予選では2区を任され、9分10秒くらいだったと思いますが区間賞でチームも優勝しました。それからは1500mでジュニアオリンピックに出場することを目標に練習しました。標準は4分8秒だったと記憶していますが、ギリギリ切ることができたので出場が決まりました。初の全国の舞台は緊張はありましたが、ワクワクしていました。私は予選の3組目で1.2組とも私のベストより早く、内心やばいなぁと思っていました笑。スタートして800mくらいでまさかの先頭を引っ張ることとなりました。ラスト勝負は強くなかったので上手く使われてしまいましたが、なんとか粘って予選を通ることができました。決勝では全く歯が立たなかったものの4分4秒台で走ることができました。それからすぐに駅伝の県駅伝がやってきました。2区を任されスピード感があったため突っ込んで入ってしまい、後半は失速しましたが、タイムは9分2秒で区間賞を取ることができました。チームとしては3位で惜しくも全国への切符は逃しました。それから目標は都道府県駅伝でした。中学生は県で3人選ばれるため3000mでタイムを出すことが必要でした。秋の大会で8分54秒を出しました。自信はつけたものの、最終的には都道府県駅伝選考会で3着に入ることが必要でした。その日は12月で、雨が降っている中で行われました。寒くて身体が動かず、タイムは出ませんでしたが、2着でゴールしました。それから、1月20日にある大会に向けて何度か合宿が行われました。しかし、ここから不調が続きます。腰に痛みが生じ上手く走れない日々が続きます。さらに、走ってもすぐに息があがってしまい、3000mTTでは9分30秒かかってしまいました。次の3000mTTでも9分30秒ほどかかってしまいました。どうしても都道府県駅伝を走りたかった私は、地元をある治療院に通いました。すると腰の痛みが軽減して、少しずつ調子も戻って来ました。そして最後の選考で勝ちきり、メンバーに選ばれました。私は6区を任されました。調子はまずまずで、自信もありました。しかし、当日の朝とても身体が熱く、倦怠感がありました。今だから言えますが、おそらくインフルエンザに罹っていました。本当は代わるべきでしたが我慢して走りました。やはりパフォーマンスは発揮できず、9分10秒ほどかかりました。悔しかったですが、走り切れた安心感が勝ちました笑。それからまた不調が続きます。走っていてもすぐに息が上がるようになり、持久力が低下しました。そこで顧問の先生に血液検査を勧められて血液検査を受けました。ヘモグロビンは正常でしたがフェリチンが12でした。2週間ほど練習を落とし、食事で鉄分が多い食事を意識しました。練習を再開しすぐに3kmのロードレースを走りました。順位は気にせず余裕を持って走れと言われたので後方からスタートしました。自分でも優勝する自信はなかったですが、体がよく動きラストでスパートして優勝することが出来ました。3年生になり、1500m、3000mで全中を目指し練習を始めました。どちらも2年生で標準は切っていましたが、暑さのなかで標準を切ることは簡単ではありません。私は暑さが苦手だったのでしっかりと暑さ対策をして通信陸上に望みました。結構ギリギリでしたか1500m、3000m両方で標準記録を切ることができました。迎えた全中では、やはり全国の壁を感じました。3000mでは、8分50秒でタイムで拾われ決勝に行くことができたものの、決勝ではペースの上げ下げに対応できずタイムも悪かったです。翌日には1500mがありました。少し弱気になっていた私は、ラスト一周で離されスパートに負けて決勝に行くことができませんでした。そして次はすぐにジュニアオリンピックの選考会がありました。全中で標準を切るつもりでいたので優勝することが条件でした。標準は狙わず優勝することを目標にしました。ラストまでためて優勝することができました。それからジュニアオリンピックに向けて練習を重ねて行きました。入賞できるくらいの状態まで持っていくことはできましたが、まさかの台風で大会がなくなってしまいました笑。駅伝では中部予選では優勝していたので、県駅伝優勝に向けて練習しました。戦力もあり、今年こそ優勝するという強い気持ちがありました。私は2区を任され8分40秒でトップで襷を渡すことができました。レースはラスト勝負までも連れ込み2秒差で見事優勝することが出来ました。とても嬉しかったです。実は3年になるこの年は新しい学校になったばかりで創立一年で初出場を決めることができました。全中駅伝ではただ出るだけでなく入賞を目指していました。全中駅伝は滋賀県のクロスカントリーコースで行われます。当日はかなり風も強く難しいコンディションでした。私は2区を任されました。1区の選手は力はあるものの初の全国の舞台で思うような力は出せませんでした。私は後方で襷を受け取りスタートしました。ほぼ単独走でしたが、とても楽しかった記憶があります。区間2位で納得いく走りが出来ました。チームは30位だったものの無事に襷を繋ぎ切ることができてよかったです。そして中学最後のレースはやはり都道府県駅伝でした。昨年は体調も良くなく、不甲斐ない走りをしてしまったので、今年こそは調子を合わせることを意識していました。その年は6区ではなく、2区を走りました。区間賞はかすかに狙いつつ、納得いく走りをすることを意識していました。1区の先輩が20位台で良い位置で来てくださり、前を追う走りができました。しかし、最初に突っ込みすぎました。最初の1kmは確か2分35秒くらいで入りました。その後差し込みが来てペースダウンしました笑。なんとか粘り8分31秒で区間3位でした。もう少し抑えて入ればと反省はしたものの楽しかったので悔いはなかったです。以上が私の中学の主なストーリーでした。今振り返ってみると順調に力をつけて競技を楽しんでいたなと思います。中学では、自己効力感があり、練習すれば強くなれるといった当たり前かもしれないですがその感覚がありました。不調を感じたらすぐに休み長く引きずることはありませんでした。とにかく中学の時は自分の感覚とペースが合っていてスピードを出す時はしっかりとスピードが出せてゆっくり走る時もリラックスして走れていました。競技を辞めたいと思ったことは全くなかったです。

次回は高校編を書きます。
長くなりすぎたので一年ごとにより詳しく書きます。順位やタイムは少しある覚えですが覚えている範囲でお伝えします。



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