短編小説「思い出を盗んで」その3 小春日
オフコース「思い出を盗んで」より
その3 小春日
「新人さん?」
その声に私は我に返った。あまりにも絵画的な風景に心をとらわれていた私は彼が声をかけてくれても暫くは気づかなかった。そのことに気づいた私は恥ずかしさのあまり頬の辺りが熱くなっていった。そんな私に構わず彼は微笑みを浮かべながら言葉を続けた。
「今日入所したの?」
「あっ、はい」
「そうなんだ。僕はこの春からだから、この冬が過ぎれば季節を一周ってとこかな」
彼の言い方が何だか可笑しくて私は思わず笑ってしまった。
「じゃぁ絵の方も季節を一周ってとこですか?」
私は彼の横で腰をかがめ絵を覗き込んた。
私の言葉に今度は彼が笑った。
「なるほど、深く考えてなかったけど、この絵が完成すれば、この場所から見た季節巡りが完結するってことだね」
「よかったら他の絵も見せてください」
「うん、いいよ」
それから私は彼の横に腰をおろして色々なことを話した。病気のことや家族のことや学校のことなど話は尽きなかった。
私は元々人見知りの性格で、病気のせいでそれに拍車がかかり会話は必要最低限にするようになっていた。だから、こんなに長く男性と話したのは初めてだった。同じ病気ということで気を許せたのもあったし、療養所の初日で少し興奮もしていたのかもしれない。でも、彼との会話をすることは私にとっては自然なことのように感じられた。
小春日和とはいえ陽が傾くと風も冷たくなってきた。そのせいか私は少し咳き込んた。彼は自分が着ていたジャケットを脱ぐと私の肩にかけてくれた。彼の匂いがした。
「寒くなってきたね。もうすぐ陽が暮れるし、戻ろうか」
「喋り過ぎてしまってごめんなさい」
「いや、気にしないで。僕も楽しかったよ」
彼は私の手を引っ張って私を立ち上がらせてくれた。彼の手は柔らかくて温かかった。それから彼は慣れた手つきで絵の道具を素早く片付けた。
「じゃぁ帰ろうか」
この療養所に来て良かった。入所する前は不安でいっぱいだったけど、今では澄み切った青空が心の中に広がっている感じがした。
(すべてが良くなっていきそうだわ)
私は坂道を下ってゆく彼の背中を見ながらそう思った。
こうして私の療養所での初日は終わった。