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進撃のおじいちゃん

〈SungerBook―男とスコーン1〉

「男とスコーン」とは、連作エッセイのタイトルとして考案しているものです。その意味合いは、説明的に紹介することによってではなく、何作か積み重なったところで、なんとなく感じられるものになればと構想しています。とはいえ、スタートラインにつくにあたり、向かうべき方向を確認しておきたい気持ちがあります。

シリーズタイトルについて「解説」のように語り始めたら、それだけで際限なく話が展開しだすような気もします。ここはストイックに抑制すべきところでしょう。もちろん、直接スコーンそのものを扱う機会も出てくるでしょうが、「男とスコーン」は、かなり広い世界を想定していて「食」を対象にしているわけではありません。

エッセイといえば山本夏彦、團伊玖磨、北杜夫、なだいなだ、木村治美、酒井順子、三浦しをん、などと作家名を並べれば、これだけで私の歳がバレようというものです。名前をあげたからといって、彼らの作品をよく読んでいるわけではなく、私のエッセイに対するイメージを表わすぐらいのことです。エッセイストということでなくとも、三島由紀夫の「太陽と鉄」や「小説家の休暇」などがすぐ浮かんできます。「太陽と鉄」の冒頭を以下引用します。

「このごろ私は、どうしても小説といふ客観的芸術ジャンルでは表現しにくいもののもろもろの堆積を、自分のうちに感じてきはじめたが、私はもはや二十歳の抒情詩人ではなく、第一、私はかつて詩人であつたことがなかった。そこで私はこのやうな表白に適したジャンルを模索し、告白と批評との中間形態、いわば『秘められた批評』とでもいふべき、微妙なあいまいな領域を発見したのである。
それは告白の夜と批評の昼との堺の黄昏の領域であり、語源どほり『誰(た)そ彼』の領域であるだらう。·····」

三島由紀夫文学論集 「太陽と鉄」より
昭和45年5月24日第4冊 講談社

思わず引き込まれますが、この格調の高さには唸るしかありません。「太陽と鉄」は二十歳前後に読んだと思います。痺れるような文学スピリッツは、身の丈が違い過ぎてとてもお手本などと言えたものではないのですが、これを初めて読んだ瞬間の、異次元世界の立ちあがりと精神の昂揚は永遠に焼きついています。自分が文章世界に開眼する契機はこのあたりにあったに違いなく、リスペクトするものを持つことは、すでに自分は十分に影響を受けているし、書くことの水脈はこのあたりから流れ来たっているのでしょう。

「男とスコーン」に込めたものは、いわば男と女であり、画家と絵であり、硬軟であり、現実と夢であり、散文と韻文であり、哲学と抒情であり、サニーサイドとダークサイドである、といったところでしょうか。しかし、何作続くか甚だあやしくもあり、あまり事前に風呂敷を広げるようなことは言わない方がいいのかもしれません。因みに、別のシリーズ「萌え町紀行」は今のところ10作となっています。

福留光帆が効いてきた

「進撃の巨人」の原作者諌山創氏は、現在三十代の若い方だと知って驚いています。その作品は若い人々の間で話題というだけでなく、ヨシモトの「東野山里のインプット」でも取りあげていました。私はその配信動画を通じて知っている程度です。自分で直接漫画やアニメに触れているわけではありません。ただ壮大なスケールの物語に仕込まれた、伏線回収の展開が強く印象に残っています。また、タイトルは何度も触れる機会があってもまったく知る由もなかった「進撃の巨人」の世界を、少しは垣間見た気になっています。

Extra Terrestrialは、Excellent Talentを懐胎している

私はすでにこのnoteで福留光帆嬢に関わる記事を三本投稿してしまっています。ネタである配信動画が強烈過ぎて、あっと言うまに連続的な投稿となったものです。参考まで、そのタイトルはこうなっています。

・「E.T.としての福留光帆」
・「傑作が企画を超える時」
・「こんな大喜利嫌だ。どんな大喜利?」

しかし、今ここでは別のことを語ろうとしています。大喜利や番組展開のおもしろさではなく、彼女が語る「おじいちゃん」というものに関してなのです。

動画、佐久間宣行のNOBROCK TV、トンツカタン森本とで展開する「大喜利の逸材検証ドッキリ」を観た方はおわかりかと思います。福留嬢はボートレースに入れ込んでいて、そのエピソードは番組中何回か出てきます。その中で、ボートレースの影響はお父さんやおじいちゃんからのものであることが語られます。芳紀二十歳が熱くボートのことを開陳するようすに、みっちり父や祖父に仕込まれてきたことを窺わせます。また、彼女のトーク力やフレーズ力が生来の自身の感性なのか、これも親族の教育効果が関与しているのかは定かではありません。しかし、ボートの知識やハウツーの教化のうちに、言語感覚や文学的感性が、祖父か父からか受け継がれたのではという気もしてきます。

アルコ&ピースとの回「まさかの逸材発見でアルピー大爆笑」でもボートレースのことは出てきますが、いちばん最初の大喜利となった「池の水ぜんぶ抜いてみた、みたいなクソ番組のタイトル 教えてください」について、
アルピーの平子に咄嗟に振られた際、すかさず

「おじいちゃんのオヘソ掃除してみた」

と回答が出てきます。成り行き上平子は必死に笑いをこらえ、一方、一拍おいて酒井は彼女のことを「あの娘いけるんじゃないの」と驚きを隠せません。

私は彼女の回答のキレやおもしろさを語ろうとしているわけではありません。このいきなり振られた大喜利を5秒で返すその様に、いわば崖っぷちのような場面で出てくる「おじいちゃん」に視点があります。こんな急場で飛び出す「おじいちゃん」とは、福留光帆にとってどれだけのものか、と思ってしまうのです。大喜利のお題を離れても、意識下に相当深く浸透していると感じさせます。おそらくかなりおじいちゃんに可愛がられ、彼女自身も幼児からさまざまな教えを吸収してきたと想像させるのです。もちろんお父さんも含めてですが、男の親族は可愛い彼女をボートレースに連れ回し、彼女自身もよく教えを受容・吸収したのであろうと思わずにはいられません。

私は彼女の語る「おじいちゃん」に、可愛い孫娘と祖父との、とても素敵な関係を感じてしまうのです。

トンツカタン森本との回、終盤に至り森本とのフリートークで、ボートレースの話題になり、彼女の幾つかのセオリーやポリシーが飛び出したあとに、結構賭けに負けるエピソードを経てから最後になって、おとうさんが「尼崎ボートレース場の看板のBの字は、オレとおじいちゃんがきれいにしたんだ、と言ってました」と語り、スタジオは大爆笑に包まれて終わりを迎えます。

「3着は流せ」と語るあなたに、おじいちゃんが
憑依しているかのよう。

私は福留嬢の視線から語られる「おじいちゃん」の言葉の響きが耳について離れません。
なんと良い、しびれる関係性なのでしょう。
利発な孫娘だからこそ、おじいちゃんも子供だからと手加減はせず、すべて教え込んだのでしょうし、孫も女だからといった通念に感
化されることなく、しっかり呑み込んでいったものと想像させます。私は彼女の語る「おじいちゃん」に、何とも言えない陽光の輝きと、生き生きとした希望に満ちたトーンに包まれているのです。なんだ、おじいちゃんってこんなに素敵な存在だったんだ!

享年72歳ジジイが愉しくなってきた

私は他のnote記事、自分の素の考えに触れる叙述のなかですでに歳は明かしています。明かすことが目的ではなく、己れの思考の内容もキャリアと不可分であり、この限られた生を見つめる上で密着しているものなので、触れることが自然に思えたのです。銅像の作り方など知る由もありませんが、自分の生に対する思考や志向、またその探求は、ひとがたを塑造するように、じっくり時間を費消しつつ練り上げられていく、そういうものだと思います。そういう意味で経験と納得の蓄積のプロセスに年齢が密着しているものではない
かと、思っているのです。

一方、加齢からくるさまざまな肉体的衰え、たとえば気持ちは若い時のままで身体を反復使用して、翌々日に出てくる痛み。以前のように酷使によって鍛えられることがなくなっています。たとえば記憶、俳優の名前など反射的に再生されずに、しかしそこはあきらめずに追いかけたあげくに甦ってくる、一定の時間がかかることだとわかって待つ、その技術が知らぬまに身についています。また、寒さも猛烈に堪えがたいものになっています。下肢が敏感に寒さを察知するようになり、女性がよく使う膝掛けの必要性が痛いほどよくわかるようになりました。さらに、頭髪のボリューム感がなくなり白髪の浸食や、皮膚のハリの喪失は眼を覆いたくなりもします。

······何を申し上げたいかと言うに、加齢による肉体的変化と同時に、十代二十代の時に見えていた未来の余白がどんどん消失していっています。この世に生を受けて「夕暮れまで」ではありませんが、うなだれた時間帯に入ってきています。しかし、陰々滅々だけで暮らしているかというとそうではなく、若い時には看過していた、小さなこともキラリと光って感受されることもあります。これは、エネルギッシュな若い時代には難しいことではないか、と思われます。枯れてきたから気がつける微細さへの執着、一見無理そうでもそのすぐ脇に鉱脈が潜んでいる匂いの気づき、一晩寝かせた方が思考がまとまってくることがわかる感覚、など長い年数を経て形成されるたぐいのことがあるものです。

とはいえ、内燃機関の劣化は如実に感じられ、この地平線が無限に続いているわけではないことも実感しています。世に対する鬱陶しさは若い時からのものではあるものの、加齢は湿りがちで貼り付いてきた錆を増殖させ、歩行をよろつかせます。紛れもなく私はおじいさんと呼ばれる季節を迎えているわけです。

そういう季節のただ中で、福留光帆嬢の「おじいちゃん」は光輝くパワーワードとして私に迫ってきています。なんだ、自分はとっても良い季節を迎えているんだ、なんか、元気がもくもくと沸き上がってくるようです。こんなこと、初めてで、子どものようにうれしくなってきます。私の中で「Lovin'You」が
流れ出してきます。

あまり見かけない好きなカラー。メタリックな光沢ではなく、ディープな色あい。

この体験が、私という車のエンジンキーを入れてしまいました。エンジンがかかってしまったのです。私は「男とスコーン」の旅に出る告知をしているようなものなのかもしれません。これまで、記事は都度都度のモチベーションによって書き投稿してきましたが、そういうやり方をやめ、ドライブマップを描いてから計画的に書くことをやってみようとしています。

noteを始めたのは一昨年からですが、そもそもは昨年終了したLINE BLOGを2019年に着手しています。通算5年目に入っていますので、少しやり方を変えてみようというわけです。例えば100本記事があるとして、これを後から大きな括りやテーマごとに分類するのではなく、先にテーマごとの書棚を作っておいて、その上で記事を書き上げて書棚に収めていく、という手順です。

別の言い方をすると私の中に著者としての私と編集者としての私がいて、編集者としてのニーズに対応しようとしているわけです。この部分については、別記事「カフェ NOTEST開店」(仮題)でnoteの活用方法と併せて深掘りするつもりでいます。現在の本記事については、著者としての記事内容中心で考えています。しかし、編集計画についても、この機会に触れておくべくここで少々かいつまんでいるものです。

「男とスコーン1─ 進撃のおじいちゃん」については、記事内容を重点にかつ、そのエネルギーの発生つまり車にガソリンが供給されたそのあたりと、点火について扱おうとしています。「男とスコーン」のめざす方向についてはすでに触れました。モチベーションに点火させたその一つが福留光帆嬢になるわけで、あとエピソードが二つあり、それについては以下の通りです。

小2の子がジジイに抱きついてきた

昨年12月、96歳の母が亡くなりましたが、その時の葬儀に集まった中に、私の姪の娘、当時小学2年の女の子がいます。親族でテーブルを囲んで仏事の料理を食べている時に、少し離れた席からその子が私を「先生みたいだ」と言っていました。学校の先生のように見えるという意味だと受け取っています。何故そう思ったのかわかりませんが、自分の周囲にいる大人の中で珍しかったのかもしれません。

そう言われた私は悪い気はせず、その子を呼び寄せると私はスマホを取り出して、noteの記事一覧をスクロールして見せたのです。
「おんちゃんは、こういうの書いてんだぞ」
(東北訛り)。ご存知の通り、標題画像とタイトルを連続して見ることになります。

そうしたら、椅子にすわっている私の首に、その子が絡みついてきて、離れない、離れない。私は何が起きたのかわかりませんでしたが、その子も何を感じたのか、言うわけでもないのです。まして子供が咄嗟に気持ちの表白ができるものでもないでしょう。周囲の親族たちはそれを見ていて、それぞれいろいろな推測を語り始めました。もちろん、その子の私に対する好感の方向での、憶測、解釈をめいめいに勝手なことを言っています。このことは、私にも説明しにくいものがあり、周囲に特に何もコメントはしていません。一体何分続いたことか。私もされるがままにしておきました。子犬が飼い主にまとわりつくようなものです。

何を思ったのかわかりませんが、私を文章を書く人として受けとめたとでも思うしかありません。そうだとして、それが人の首に抱きつき何分も離れないアクションするその子は実際何を感じたのか、知り得ないことです。
ただ、何か肯定的な気持ちがあったのかと考えるしかありません。もちろん、私も悪い気はしていないのですが。はじめはさっさとまとわりつく子犬を振りほどこうとしたのですが、されるがままにしておきました。

葬儀の後、その驚く激レアな体験の余韻の中で、私は以前書いた子供向けのショートストーリーを思い出して、その三話を冊子にして小学生に送りました。さらに、何か焚き付けられたかのように、その後その子向けに新たに創作しました。「ファンタジーの小径」として、下記の三話を送ったのです。

 ・「ゆきのすきな色」
・「ぴいちゃんのクリスマスケーキ」
・「ありがとうのタネ」

InDesignも使わず手づくりで面付し、中綴じ
している。

先生と思われたおじいちゃん(私は、その子から見れば、実のおじいちゃんの兄弟)は、すっかり気をよくして、昔の創作メルヘンを思い出しただけでなく、勢いあまって新たに創作までしてしまったというわけです。ちなみに、ぴいちゃんとはその子から見て曾祖母(宮城県ではおっぴいさんと言う)にあたる、私の母のことを指しています。

この三篇もnoteに投稿する機会があるかもしれません。これは、「男とスコーン」ではなく「ファンタジーの小径」として創作ストーリーに分類するつもりです。

さて、桜も散って春の中、今年私は若い女性たちにエネルギーを充填してもらうという、
不思議なことが起きています。私のエクリチュールに直接油を注いでくるのです。書くことのモチベーションに点火してくるのです。
岡本太郎が「芸術は爆発だ」と言いましたが、これを大喜利のお題にして「芸術は爆発だ、みたいなことを言ってください」と出されたら、すかさず

「おじいちゃんは爆発だ」

と応えましょう。

もうひとつあった、IUが来たよ!


私はnoteで「韓流『商道』はおもしろいか」を投稿しています。10年近く前から韓流に接しています。推し活というほど熱の入ったものではありませんが、noteでは「才能はダンスに表われる」の中でIU(アイユー)にも触れています。「推し活」というものは、私はきっちり意義づけておくべきと考えていて、それは本稿の中ではなく、別途「男とストーン」の一話でまとめたいと思っています。

IU は今となっては大スターになってしまいました。私が日常的に聴く音楽の中に必ず彼女も入ってきます。いちばん最近では、「Four Times Around the Sun」ですが、彼女は女優としても魅せるところがあります。私が彼女を知ることになったドラマは「最高です!スンシンちゃん」です。この変わった名前は、韓国の歴史的英雄イ・スンシンからきています。韓国にはこの将軍の巨大な銅像があります。その時代劇もあるぐらいです。この名前を女の子につけてしまうのは、ドラマ中の親の思いを表わしているのでしょう。制作者サイドの野心あるいは下心も感じさせます。実人生とシナリオを二重映しにするドラマツルギーに韓国ぽさを感じるのですが、砕いて言えば、シナリオに現実を投影させて視聴者の興味を刺激する手法としてです。しかし、事実彼女は歌手・女優として大スターとなってしまいました!

私は「最高です!スンシンちゃん」を、確か3回観ています。ところが、昨年Gyao!が終了したのはご承知の通りです。もう「スンシンちゃん」は観れないのか、と半ばあきらめていたところでした。ところが、最近何かの折にABMAで韓流を扱っているらしいことを知ることになりました。事実関係は知りませんが、ABEMAで放映権等引き継いだとか、そんなことかと推測します。そりゃあ韓流ドラマの需要を考えたら、それを放置するわけないことです。ちょっとクリックしてみたら、出てくる出てくる一度観たタイトルがザクザク出てきます。もともと有料も辞さない気があるなら、Huluでもなんでも探したのでしょうが、GyaO!は無料がよかった。ABEMAで「スンシンちゃん」に辿りついたら無料だったのです。このラッキーにワクワクして視聴し出しました。いい気になって第4話をクリックしたら、有料化導入の仕掛けが待ち受けていました。しかし、韓流ドラマということではなく、IUのこの番組を観るために、背に腹はかえられない気持ちです。有料視聴はためらっていたのに、このコンテンツのためなら、と背中を押してくるものがあります。

GYAO!のあとはABEMAで出ていたんだ。

ドラマに登場する季知恩(イ・ジウンIU本名)に触れるそのことによって、私が得られるパワーはどれだけのものか。たぶん、このドラマに関するネタでのエッセイの構想を刺激する可能性を感じます。もちろん、その目的的に観るというより、感情的に観たいがほとばしっているだけです。今、4話まできて、今まで気がつかなかった、あらたに見えてきている話柄もあります。もう、ABEMAプライムに登録してしまいました!

今、私は三人の若い女性によって賦活させられているようなものです。通常の男女関係とは別に、こんな図式があるなんて知りませんでした。若々しいエネルギーを充填され、広範な題材やテーマを扱うことになるはずの「男とスコーン」へ向かって、おじいちゃんは進撃します。気分としては自らへの期待をこめて、確変モードのギアが入ったという感じでしょうか。私のはしゃぎようを表わすために最後にこんなフレーズはどうでしょう。
「娯楽という字は、女がくれぐれも楽しいと書くぜ」。★

備考:編集者のプランとして別途「カフェNOTEST開店」で詳細を扱うとして、本稿では現時点での編集構想を記しておきましょう。話数はnote投稿数。

・男とスコーン(エッセイ、1話本稿)
・萌え町紀行(エッセイ、10話)
・キャッツアイ(論考、12話)
・燕返し(批評、6話)
・カラーグラス(社会文化評論、9話)
・舌鼓(文芸評論、7話)
・ファンタジーの小径(ストーリー、1話)

以下仮題
・ジョークチョーク(コラム)
・生成色(きなりいろ/ノンフィクション)
・アラカルト(単品)

noteの既投稿記事数は46話ですが、他ブログからの移行中分があり、メンテナンス後投稿予定で、これを含め現在全97話のnote化計画となっています。






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