もたもた書いたじじいの原稿

キャッチボール

「ピンチヒッター、山崎正太」
 とつぜん、監督のかん高い声が、青空の下のベンチにひびいた。
「えっ、ぼくが、なぜ」
 練習でもヒットを打ったことがない。それなのに、二日前から右肩が痛みだした。練習のしすぎだろうか。痛くてバットを振り切れない。
 この日は、三つの町の少年野球八チームが競う大会の決勝戦だ。試合は最終回。正太たちのチームは、2アウトからヒットに相手のエラーが続き、2アウト満塁というチャンスをむかえていた。得点は6対5の1点差。一本ヒットがでれば、逆転サヨナラ勝ちとなる
 正太は、バットをひきずりながら、バッターボックスにむかった。

 正太が暮すこの町は、低い山に囲まれ、町の真ん中を川が流れている。正太がこの町へ来たのは、昨年の三月だった。両親が離婚し今までいた大きな町から、母の生まれたこの町へ、母と二人で引っ越してきたのだ。母の実家は、昔からの農家で、祖母のよねばあさんが、一人で暮していた。おじいさんは、正太が生まれる前に亡くなっていた。
 よねばあさんは、朝早くから畑へでかける母も町のスーパーへ働くことになった。

 正太は小学校四年生になった。でも、家にいるときが多かった。絵本や童話を読んだりテレビのアニメを見たりしていた。生まれたときから体は弱く、よくカゼをひいた。外あそびは、きらいだった。
 夏休みになったある日、正太は家の庭の奥に建っている物置小屋に、そっと入ってみた
「何が入ってるのかな」
 うす暗い中をよく見ると、奥の棚のすみっこに茶色い野球のグローブが置かれていた。しわしわの皮のグローブだ。カビの匂いがした。すり切れたボールがにぎられていた。
 正太は畑から帰った、よねばあさんに、グローブのことをたずねると、「グローブのあることも知らなかったよ」と言う。
次の日、正太は、グローブを手にはめた。なぜか、わくわくした気持ちになった。外へ出ると、ブロックのカベに向かってボールを投げつけた。ボールがはね返ってくる。
 正太は毎日のようにボール投げをした。ある日、捕りそこなったボールが裏道へ転がっていった。すると、知らないおじいさんが、ボールをひろって、正太に投げ返してくれた。口のまわりにヒゲをはやした、こわそうな、おじいさんだった。
「ありがとう」
 ヒゲのじいさんは、何も言わず、山の方へ歩いていった。
 二学期が始まった。
 正太はカベを相手に、キャッチボールを続けていた。あるとき、正太はふと気づいて振り返った。あのヒゲじいさんが立っていた。
「ぼうず、だいぶ、うまくなったな」と、つぶやくと、また山の方へ去っていった。
 それから数日がたった。正太はきょうも一人でキャッチボールを楽しんでいた。そのとき、こわそうな声が、ひびいた。
「ぼうず、わしとキャッチボールするか」
ヒゲじいさんだ。左手にグローブをつけていた。
 近くの神社の前の広場で、正太とヒゲじいさんのキャッチボールが始まった。
「あのヒゲじいさんだろ。山の中の一軒家に一人でいるんだよ」
 よねばあさんが、教えてくれた。
「よめさんは、ずいぶん前に亡くなったし、一人いた娘さんは結婚に反対されて、家を出ていった。がんこなじいさんだわ」

 正太は、ヒゲじいさんとキャッチボールをしたあと、思い切って、聞いてみた。
「じいちゃん、いつから野球やってたの」 
「おまえと同じころだ。戦争が終わって、物のないときだ。布で作ったグローブで初めて野球をやった」
「正太のそのグローブは、おまえのおじいさんの和男が使っていたグローブだ。わしはよく覚えとる。あいつとは、子どものころから毎日のようにキャッチボールをした仲だ」
「そうなんだ。どっちが、うまかったの」
「高校では、わしは投手で三番を打った。でもな、和男は補欠だった」
 ヒゲじいさんは高校三年生の秋、自転車で深いみぞに転落し、大けがをしてしまった。
「もう野球はできなくなった。ずっとくやしい思いをして生きてきた。いいことは何ひとつなかったなあ」
 正太は、じっと聞いていた。
「この年になって、またキャッチボールをするなんて思ってもみなかったよ。正太、そのグローブ、大事にしなよな。和男もきっと喜んでるぞ」
 ヒゲじいさんの目がやさしくなっていた。

 正太は小学校五年生になった。町の少年野球チームに入った。古いグローブを手に。
 そして、この秋。正太たちのチームは勝ち進んだ。町営グラウンドでの決勝戦でむかえた最終回。正太は、おそるおそる打席に入った。からだが、ふるえている。
相手投手が、第一球を投げこんできた。
「ストライク!」
バットが出ない。
二球目がきた。痛い。とても振り切れない。
「だめだ。打てない」
 そのとき、ヒゲじいさんの声が聞こえた。いや、聞えたような気がした。
「正太、バットを下へたたきつけろ」
 三球目が投げこまれた。
 正太はバットを背負って、全身でホームベースの上にたたきつけた。
「ボーン」と、にぶい音がした。
バットに当たったボールは、セカンドの頭上をこえて、ライトの前にポトンと落ちた。
 その間に、二人がホームイン。まさか、まさかの逆転さよなら勝ちとなった。

 次の日の日曜日、正太はグローブを持って家をとびだした。川ぞいの道を歩きだしたとき、川のむこう岸の道を歩いてくるのは…ヒゲじいさんだ。女の人と、正太と同じくらいの女の子もいる。ヒゲじいさんの娘と孫の女の子だ、と正太は気づいた。
 正太は大きな声で叫んだ。
「おじいちゃん、ありがとう」
 ヒゲじいさんは、正太を見つけると、右手を大きく振って、川むこうから正太にボールを投げてきた。
 正太はヒゲじいさんの投げた真っ白なボールを、しっかりと受けとめた。和男じいさんのグローブで。

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