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ゴドー待ち(その1)

80年代の前半、学生劇団に入っていた。

まぁお遊びといえばお遊びかもしれないが、メンバーは一応美大の学生である。
手先は器用だし馬力もあったから、舞台装置だの照明機材だのという、自分で作れるものはそこそこのレベルで自作した。
最後は200人は収容できる大テントを自作して、大学の配電盤から電気を引っぱって、裏山で公演を打つところまでいった。

それに役者陣も悪くなかったと思う。
何か伝えたいから美術などやっているわけで、これも形を変えた表現行為だ。
外連味のある者も、天然ふしぎちゃんも、それぞれに味があって、実際、卒業後わりと有名なプロ劇団に所属した団員もいたくらいだ。

全体として、今考えても、お遊びとしてはかなり上等な部類だったと思っている。

そう、われわれは良くやった。
だがしかし、全てが完璧だったのかといえば、そうではなかったのである。

                      

問題は脚本にあった。

脚本、すなわち芝居の台本である。
どんなに舞台装置が素晴らしく、良い役者をそろえたところで、脚本がなければ幕は開かない。
自明の理であろう。
なので、全ての始まりは何を上演するのか、つまり脚本探しなのである。

まず、世の中には脚本家という人たちがいて、この人たちの書いた既存の脚本をやるのは楽である。(タダではないが)

何しろ、失敗作がない。
誰かがどこかで上演して、それなりの評価を得ているわけだから、ちゃんと当たりの本を選んでおけば、間違いがないわけだ。

それに遅れがない。
実はプロアマ、洋の東西を問わず、芝居の初演では、稽古が始まっても肝心の台本が最後まで出来上がっていないというのはよくある話、演劇あるあるなのだ。

もちろん素人劇団にこれはなかなかにスリリングな状況なので、できれば避けたい。
これも既存のものなら遅れようがないどころか、じっくり読み込んで、理解を深められるというものだ。

そんなわけでわれわれも、竹内銃一郎や鴻上尚史なんかの作品をやったこともあった。
実に良い脚本だったと記憶している。

                      

だがしかし、やがて向こう見ずな我々は、無謀にもオリジナルを指向してしまったのであった。
このあたり、表現者としての自意識が強過ぎたといえる。

実際のところ、大学演劇で成功するのは、なんといっても優秀な才能(=脚本家)を抱えられるかどうかにかかっている。
前述の鴻上尚史にしろ、あるいは今をときめく三谷幸喜にしろ、元はといえば学生演劇上がりである。

彼らは20代で素晴らしい脚本を書き、自然その才能を慕って人が集まり、自前の劇団を組織していた。

逆を言えばそういう才能を見つけられないで、無闇に自前の脚本などを作ろうとすると、とんでもない苦労をするのである。

と、ここまでが長い前振りである。
続きはまた書く。


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