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すずめの戸締り、ようやく

「すずめの戸締り」は公開当時、学生が熱く推めてくれたこともあって、いつか見なくちゃならんなと思っていたのだが、先日テレビ放送があって、ようやく視聴した。

個人的に新海誠監督は、「秒速5センチメートル」の本当にどうしようもない主人公の情けなさ加減と、それを丸ごと肯定してしまうような美しい映像とのギャップで、どう評価したらいいのかよくわからない人だった。
その後の本格的な商業作品としての「君の名は。」は、純粋にタイムスリップもののSFとして楽しかったが、「天気の子」の方は、わたしにはよくわからない話で、全体として少し叙情的なものに流れすぎる人なのかと感じていた。

それで「すずめの戸締り」である。

なるほどだいぶわかりやすいお話だ。
震災を題材にした作品はいくつも作られたけれど、生々しさとファンタジーみたいなもののバランスを取ってヒットする映画に仕立てているのは、大した才能だと思う。

ただわかりやすい故に、ちょっと疑問も湧いてきた。

まずは、震災は題材だがテーマではないということ。
何しろミミズの正体に触れていない。あれは人間の悪意の象徴なのか、抗い難い自然の脅威を表しているのか?
最後にしれっと、人の力の弱まった場所で後ろ戸は開きやすい、みたいなセリフが出てくるが(確かにだから後ろ戸は廃墟にある)、ならば突き詰めれば東北の震災はそこに住む人間が少なくなったから起こったということにならないか?
それでは天罰ではないか?

それからダイジンはともかく、サダイジンとは何だったのか?
少なくともダイジンはもと人間で、羊朗のお久しぶりです的なセリフからも、元は宗像かそれに類する一族なのではないかと思われる。さらに鈴芽の子供になりたいという思いから、要石を卒業して後釜に草太を、という動機も理解できるものだ。

一方、サダイジンも同じような出自なのだろうが、あれはどういう意思を持って出てきたのだろう。(そもそも東の要石を抜いたのはダイジンなのか?)
作中では、無意味に環さんに不穏なことを口走らせた挙句、すんなり仲間に加わっているし、直後に常世ではミミズと戦っている。
ダイジンが要石に戻る決心をしたのはわかるが、サダイジンは何故大人しく草太にしたがっていたのだろう。
なら最初から要石のままで良かったのではないか。

結局物語のテーマは少女の成長と、叔母との和解の話であって、だとしたらダシに使うにしては震災は少々重すぎるし、どうなのよと思った。

日本の災害は、ある一族の献身によって守られている、というストーリーでは、じゃ能登では封じ込めに失敗したの? あそこも過疎が進んでいたから、地震になったの? という救いのない結論にしかならないではないか。


以上、一回テレビで見ただけのおじさんの感想なので、異論がある向きはお許しいただきたい。
それと本来のテーマである鈴芽の成長譚は、登場人物が魅力的なこともあって、面白かったし、だから映画として悪いとは思わない。

ただまぁ新海誠だなぁ。


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