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屋根より高い

歳をとると時間の経過が早い。
もう4月も終わりに近づいて、今年も1/3が終わるわけだ。
そうして5月になると、時々思い出すことがある。

我が家は通過儀礼のようなものに冷淡な家庭だった。

通過儀礼、つまりお七夜とか宮参りとか七五三とかの類で、おそらく自分と兄弟妹の4人、誰一人、いっさい何もやってもらったことがない。

いつだか友人の家で、「命名 ◯◯」と墨書きされた半紙とともに、赤ん坊の時の彼が写っている写真を見せられたことがあって、ああこういう時代がかったことをする家がいまだにあるのだと、ずいぶん感心したことがある。

しかし、どうも話を聞くと、少なくとも彼の郷里では普通のことだったらしく、もしかしたら自分の家が普通ではないのかと、疑問を抱いたものだ。

もちろん家だって、さすがに誕生日には何か買ってもらえたけれど、だいたい本とか本とか本で、贅沢とは程遠かったし、当時流行り始めた、友達を呼んでのお誕生会、みたいなイベントとは無縁であった。

小学校に上がるときには、入学式には来てくれたような気がするが、あとでいやいや写真だけ撮られた覚えがあるから、もしかしたらそれにも来ていなかったかもしれない。
もちろん、中学、高校はそれすらなくなった。

成人式に至っては、そういう親の元で育ったからか、自分から出なかったし、親に何かしてくれなどとはこれっぽっちも思わない人間に仕上がっていたのである。

まぁ、別にそのことに恨みがあるわけではない。
日本も貧しかったし、子供も山のようにいたのだから、いちいちそんなことに手をかけていられない家庭は、いくらでもあっただろう。

ただある5月のこと、母が押入れの掃除をしていて、大きな行李の中から、「うちにもあるのよ」と言ってそれなりに立派な鯉のぼりを出して見せてくれたことがあったのだ。

揚げないの?と聞いたら、揚げないということだった。
当時は団地に住んでいて、というか今に至るまで、鯉のぼりを揚げられるような広い庭付きの家に住んだことがないのだから、当たり前のことだ。
しかし鯉のぼりどころか、端午の節句というものにいっさい無縁の我が家のことだ。
わたしは、あるはずのないものがあることに大いに驚いた。

あれは母の嫁入り道具だったのだろうか?

件の鯉のぼりを見たのは、後にも先にもその時だけで、母親が鬼籍に入った後に、もしやと思って探してみたが出てはこなかった。
あれはいつまでうちの押し入れにあって、いつ見切りをつけられたのか、もう知りようがない。


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