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<授業力>の先へ:4年『がい数』の授業より / 「集合的達成」と算数授業の「よさ」

 「授業力」という言葉。

 教育に携わっていれば、必ず耳にする言葉だと思います。私自身も「授業力のある先生」「授業力を高める」なんてフレーズを無意識のうちに使っていることがあります。

 この「授業力」という言葉は、何を指すのでしょうか?

 「あんな風に子どもたちを意欲的に活動させるなんて、あの先生は授業力がある。」と言ったりしますよね。授業の中で垣間見る「教師の関わり方」が「授業力」の中には含まれています。

 「授業力のあるあの先生なら、この単元をどんな風に進めていくのか話を聞いてみたい。」と言うかは分かりませんが、こういった使い方をすることもあるでしょうか。この場合は、単元=指導事項(内容)を子どもが意欲的に学習する授業にするために教材研究を深めたりや指導方法のアイデアを出したりする「計画する力」が「授業力」の中には含まれているのでしょう。

 このように「授業力」を簡単に整理すると、教師がもつ「関わり方」「計画する力」が<授業力>と捉えてよさそうです。


 では、この<授業力>が無い先生は「よい授業」をすることができないのでしょうか?

 言い換えると、若くて<授業力>が未熟な先生は、どんなにがんばっても<授業力>ある先生の授業には敵わないのでしょうか?

 きっとそんなことないはずです。

 授業は教師の力量がもちろん関係するけれど、その時々に出会う子どもたちにもよるのではないでしょうか。少なくとも私はそう思っています。ある先生が現時点で子どもと素敵な授業をしていたとしても次の年度はそうならないかもしれないし、逆の場合もあるかもしれません。だからこそ、教師はその時々の出会いを楽しめる魅力的な仕事である一方、心を擦り減らすことも多い仕事なのだと思っています。

 こうしてみると、<授業力>という言葉を考えると、「よい授業」と言うものをもう一度捉え直す必要があるのではないかと思えてくるのです。


 今回紹介するのは、私のまだ経験が浅い頃の『がい数』の実践記録です。とある研究団体の研究会で「実践報告」としてまとめて話題提供した記録の一部分です。

 今でも「よい授業」の「よさ」を考えるときに思い出す実践記録です。当時、卒業生を出して、高学年しか受け持ったことのない自分はようやく高学年以外を担任できると思っていました。ただ、次の年度も「また5年生」と言われ、管理職に訴えに訴えて持たせてもらった4年生です。

 出会った当初から子どもたちの生活は苦しいものでした。「どうせうちのクラスなんて」という子。隣の人と話したくなくて机の下に潜ってしまう子。授業の途中でいなくなる子。「あんたのせいで」とは言わないけれど、髪の毛を送ってきた御家庭もありました。

 学力差も非常にあったため、授業も難しい。それでも授業で子どもたちと成長していこうと頑張っていました。うまくいかないことも多かった中で出会ったK君にまつわる授業記録です。

 K君は勉強が得意でした。でも、塾とかに通っているわけではないので、よく間違えます。間違えると彼はすぐ泣いてしまいます。そんな彼が変わった瞬間がありました。

 『概数』の単元の「百の位までのがい数にしましょう。」という問題で、K君は四捨五入する場所を間違えてしまいました。子どもたちが「それは違う…。」とざわついたときには、もうK君の目には涙がいっぱいでした。K君は一番前だから僕と近くの子ぐらいしかおそらく気づいていないはず、クラスの全体に気付かれるとK君がかわいそうかなと思い、「そうか、K君はここで間違えてしまったんだね…。おしかったね…。」と、そっと話し掛けて座らせました。すると、一番後ろの女の子が「先生、K君の答えだと「千の位まで」って問題にすれば正解になるよ」と話してくれました。この瞬間を逃すわけにはいかない!「そうだね!○○さん。すごいこというねぇ!」と黒板に「それだと」と板書しました。すると、周り子も続き、K君の答えがどうしてそれだと正解になるか話し合いました。

 K君はうつむいて泣いていました。聞いていたのかは分かりませんが、しばらくして次の問題を解き始めました。他の子どもたちと発表をつなげていると、なんとK君が手を挙げました。「よしK君。リベンジだね!」と声を掛けると、K君は黒板の前に出てきました。答えの「9」と「4」をチョークで書きます。クラスが絶妙な緊張感に包まれました。「4」の次の「0」を書けば正解だと分かります。K君が「0」と書いた瞬間「おぉー!」と歓声が起き、残り2つの「0」「0」を書くと同じように更に大きく「おぉー!」と歓声が上がりました。歓声に合わせてかK君の書く「0」も次第に大きくなっていきます。授業が終わった時、K君はニコニコでした。

 子どもたちがK君に共感し、「それだと」と発した言葉をきっかけにクラスの雰囲気が一気に変わりました。授業の問題を「○○の位のがい数にしましょう。」と意図的に変え、ある程度自由度をもって子どもたちが問題に取り組めるようにしていたたからかもしれないし、泣いていたK君を何とかしようという気持ちが働いたのかもしれません。いずれにしても、周りの子の「それだと」がK君の考えを生かし、K君がもう一度勇気を出すきっかけになりました。

当時の記録より
当時の板書

 板書が汚いのは相変わらずですが、今考えても拙い授業だったと思います。しかし、今でもこのクラスでの授業を思い出すことができます。毎日が必死で、子どもたちとも自分の力量不足とも戦っていました。

 授業としては、よくあるマスキング(□にしてその□を子どもたちが考えて取り組む)の手法です。練習問題の内容でも、マスキングにして「どの位で四捨五入しするか?」を一緒に子どもたちと考えて取り組もうとしています。自分の実践なので正直に言いますと、概数に目的意識も条件も何もない中で子どもたちに何を求めているんだと思います。それなら「街の人口」とか、「地球一周の距離」とか何かお題を出して検討しながら授業を展開すると思います。

 しかし、K君はその後の道徳の授業の振り返りに次のように書くのです。

 前は発表するときに、言えるのに、きいてくれないと思ったし、まちがえるかも!ってなるときがいっぱいあったけど、いまはゆうきを出して言えるようになった。

当時の記録より

 K君の心境の変化が見られます。概数の授業があった週の道徳の振り返りだっため、少なからず関係があるはずです。これを読み、心が温かくなったことを覚えています。

 私はこの授業の中に「よさ」を見いだすことができるのです。

 指導内容の深さがまだまだです。しかし、子どもたちの中には「自分たちの手で解決している」様子を見いだすことができます。それは、「概数の問題を個人が解けるようになるかどうか」という問題だけではなく、「K君が直面した概数の問題に自分はどう関わるか」という問題が含まれているのです。ある子は「それだったら…」と問題に働きかけることでK君の誤答を正答にする方法を考えます。ある子はK君の勇気を「おぉー!」という声で鼓舞します。ある子は真剣な表情でK君を見つめます。個の理解、個の解決、個人の属性では語りきれない相互関係があるのです。

 心理学者の有元典文は『デザインド・リアリティ』の中で、このような「みんながいることで何かが達成できること」を「集合的達成(collective achievement)」と呼びました。そして、それが生まれる場に対して、「それは誰にとっても時々刻々変化する新たなターゲットへの取り組みであり、独りでは太刀打ちできないことを「みんなで(ーとなら)できるようになる」集合的学習の場のことを意味する」と述べています。これは、指導内容以外にも起こりうる様々な「問題(ターゲット)」を、教師と子どもたちが一緒になって「授業の中でそれを丸ごと引き受ける」という風にも理解できるのではないでしょうか。

 指導内容の深さだけでは切り崩せない<深み>が授業の中にはあるはずです。私が算数の授業を学ぶのは、「指導内容の深さ」や「教師の関わり方」が、即ち<授業力>が、この「集合的達成」を多く引き起こすことができるのではないかと考えているからです。<授業力>の先にあるこの事象を求めているのです。

 「集合的達成」が生まれる授業には魅力があります。こんなにドラマチックでなくても、「自分は変わった」と子どもが明文化しなくても、みんなでできるようになる体験があれば、学校生活が少し豊かに感じられるようになると思うのです。


 私にとっての授業の「よさ」です。

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