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【ためになる?コラム】故事成語辞典:その24「汨羅に死す」の巻

 先日テレビで興味深い番組を目にしました。NHKスペシャルですが、題して「人はなぜ殺し合うのか」……。
 根本的に平和を論じるにあたって、この問題は非常に重要です。精神論だけで愛と平和を口にする人(言い方は非常に悪いですが、頭の中がお花畑な人)には、ぜひ見てもらいたい番組です。見逃したかたは、再放送を待ってください。

 簡単に番組内容の要点を申し上げますと、ヒトとは他の生物に比べて著しく共感能力の高い種族であり、「仲間意識」を持ちやすい本能があるのだそうです。原始時代、人は家族単位で行動していましたが、それが同じような生活様式を持つ隣の家族と仲良くなり、だんだんその繋がりが広がって村となり、やがては国となっていった……それはすべて人が持つ本能、つまりは「仲間意識」に起因するのだそうです。この「仲間意識」は「同族意識」と言い換えることもできそうですね。

 とりあえずここまでは、まあそういうことか、と納得できるものと思います。

 しかし実際に「仲間」集団が形成されていく反面、人はそれを守るために仲間以外に対する攻撃性を備えるようになったというのです。つまりは「排他意識」です。

 しかもこの排他意識は脳内物質が分泌されることによって形成される……その物質の名前についてはここでは詳しく言及しませんが、いわゆる「幸せホルモン」と呼ばれるものだそうです。結局「仲間ではない人を排除する」という行為こそが「仲間」の結束を強化し、それによって人は「幸せ」を感じるのだそうです。

 だから人は「幸せ」を感じるために戦い続けてきたのだ、と……。

 皮肉もいいとこです

 過去の記録に残る戦争や紛争を数えると、その回数は全世界で1万回以上、死者は1億5千万を超すそうです。今後その数が少なくなることはあり得ませんが、上昇率を下げるためには、いわゆる「同族」の範囲をヒトの意識の中で広げなければなりません。つまり、「仲間」とする範囲を広げなければならないのです。しかしこれは脳内物質に起因する「本能」の問題なので、ものすごく難しいことだと言えましょう。

 番組内では色々な実験により、その難しさが証明されています。
(記憶の中での話なので、内容に若干違いはあると思いますが、大筋ではこのような内容でした)


 何でこんな話をしたんでしたっけ……? よくわかりませんが、今回のタイトル「汨羅に死す」……汨羅は「ベキラ」と読みます。怪獣の名前などではなく、川の名前です。その昔、汨羅江という川があったのです。いや、今もあります。

 この話にまつわる主人公と呼べる人物は、ものすごく潔癖な人でした。悪事が許せず、自分の正しさを信じ……それがために大多数の人々から疎外されたのです。それこそ、仲間から外されたわけですね。

 今回はそんな話をしたいと思います。


【汨羅に死す(べきらにしす)】

意味:

 信じる正義が人に受け入れられず、悲憤して死ぬこと
 また、「汨羅の鬼(べきらのおに)」と表現すれば、これだけで「水死体」を意味する。
 
 が、これらが現代日本において口語表現として使用されることはほとんどない。

 以下、なぜ「水死体」が「汨羅の鬼」と呼ばれるのか、またなぜ憤死することを「汨羅に死す」と表現するのかを説明したいと思う。

由来:

 時代は紀元前278年。屈原(くつげん)と呼ばれる人物は石を懐に抱き、その身を汨羅江に投じた。その日は5月5日で、端午の節句の日であった。

屈原肖像画。作者は横山大観です。

【屈原という人】

 屈原は戦国末期の楚国に生まれました。姓は羋(び)で、これは王族と同じ姓なので(楚の王族は羋姓熊氏)、ひとことで言うと貴族です。当時の王は「懐王」と呼ばれる人物で(何度かこのコーナーで取り上げた項羽の時代における『懐王』とは別人物)、博学で弁論表現の上手な屈原を重用していたようです。具体的には左徒(さと)と呼ばれる賓客を応対する係としての役職を与えられていた、とされます。つまり屈原は、諸外国との折衝係でした。

 しかしよくある話ながら、この屈原の能力に嫉妬する同僚がいました。それは上官大夫(たぶん官職名)と呼ばれる人物で、彼は懐王に向けて屈原のことを、このように讒言しています。

彼はいつも『やれるのは俺だけだ(非我莫能為)』などと自慢する
 
 懐王はそれを真に受け、屈原を疎んじるようになります。屈原自身もそれを知ることとなりますが、このときの彼の様子を司馬遷は以下のように記しています。

「屈原は、王が人の言葉を聞き分ける耳を持たず、讒言しながらへつらう者が王の明察を覆い隠し、よこしまな者が世の公平を損ない、正しき者が容れられぬことを心から憎んだ。それゆえ憂愁し、深く思いを巡らして『離騒』を作った」

 ここでいう「離騒」とは「楚辞・離騒篇」のことです。屈原は弁論表現が上手だったと先述しましたが、その正体は中国を代表する詩人だったのです。

 それにしても司馬遷が屈原の心情を表す言葉は激しいものですね。以下、「史記・屈原賈生列伝」では「離騒」についての説明が延々と続きます。司馬遷の屈原に対する気持ちが強く示されていることは明らかですが、ここで詩の内容は大筋に関係ないので、割愛させていただきます。詳しく知りたい方は、上記Wikipediaのリンクを参照してください。

 ただその司馬遷が屈原、あるいは「離騒」の精神を言い表した最後の一文だけは、以下に記しておきたいと思います。

「……汚らしい泥の中から自己を区別し、濁れる汚れより抜け出て、塵ほこりの外に浮かび上がり、世の垢に汚されず、清らかで、黒く染めようとしても色づかぬ人であった。……日月と光を争うとさえ言うことができよう」

濯淖汙泥之中,蟬蛻於濁穢,以浮游塵埃之外,不獲世之滋垢,皭然泥而不滓者也。推此志也,雖與日月爭光可也。

 司馬遷は、屈原を絶賛しまくっています。

【政策で張儀と張り合う】

 屈原は諸国との「合従(がっしょう)」を大事にしていました。合従とは当時最強国であった秦に対抗するために、他の六国同士が軍事同盟を結ぶことです。しかし屈原は先述の通り朝廷から疎んじられてしまっていました。それを見越した秦は、楚国へ揺さぶりをかけるのです。

 ここで秦から遣わされた人物が、張儀です。張儀とは「合従」とは反対の「連衡」策の立案者でした。連衡策とは諸国が強国の秦と同盟を結び、その影響下で安泰を得る、という政策です。

 張儀は楚にやって来て言いました。
「秦は非常に斉国を憎んでいます。しかし貴国と斉は、同盟の間柄ですな。もし貴国が斉と絶縁するのであれば、秦は商・於ふたつの土地、あわせて六百里を献上させていただきたいと思います」

 そこで楚の懐王はこの言葉を信じ、斉と絶縁してしまったのです。

 しかし実際に楚側が商・於の土地を受け取ろうとしたところ、張儀は「ぬけぬけと」言い放ちました。

「私が王さまと約束したのは六里であった。六百里とは言っておらぬ」

 楚の懐王はこの言葉に激怒し、秦を軍事的に攻撃しました。しかし逆に敗れ、八万もの犠牲を出してしまいます。しかし懐王はあきらめず、さらに軍を進めました。が、その隙を突かれて魏国に攻め入られることになり、絶縁していたので斉国も助けに来ませんでした。

 楚は非常に苦しい立場に追い込まれたのです。

 しかし秦の側もまだ楚国を滅ぼすには時期尚早と考えたのでしょう。戦いによって得た漢中という土地を返すことで、和睦を結ぼうと楚に提案してきました。

 ここで黙って受ければよいものを、懐王は意地になって言い放ちます。

「土地などほしいとは思わぬ。張儀をもらい受けて、恨みを晴らしたい」

(不願得地,願得張儀而甘心焉)

 当事者である張儀は、この言葉を真正面から受けとめました。彼は秦王にこう告げて、楚へ赴きます。

「私ひとりが行くことで土地が我が国に残るのであれば、楚へ参ります」

 (以一儀而當漢中地,臣請往如楚)

 さすがというか、張儀もなかなか肝が据わった男です。

 ただ、ここで張儀がとった作戦は、賄賂でした。ときの宰相にたいそうな贈り物をし、懐王の愛妾である鄭袖(ていしゅう)を言いくるめ、うまく味方に引き寄せたのです。

鄭袖です

 懐王は鄭袖に言われるまま、結局張儀を釈放してしまいます。まったく何をやっているんでしょうか。このとき屈原は左遷されていましたが、ちょうどよく朝廷を訪れ、懐王を諫めるに至ります。

「なぜ張儀を殺さないのですか(何不殺張儀)!」

 懐王も釈放したことを後悔し、急いであとを追わせましたが、間に合いませんでした。張儀を生かしたまま秦に戻してしまったことで、楚はまた攻め込まれることとなります。


【さらに国論は割れ……】

 それから四十年弱の月日が流れます。秦の王は、楚の懐王に対して姻戚関係を結ぼう(娘を嫁に出す)と提案しました。これを受けようと、懐王は秦に出かけようとします。屈原はまたもこれを諫めました。

「秦は虎狼のような国だ。信用ならない(秦虎狼之國,不可信)」

 ところが懐王の末子で令尹(れいいん・楚における宰相)という立場にあった子蘭は、連衡論者でした。彼はこの話を推し進めます。

「どうして秦とのよしみを絶つなどと言えるのか(柰何絕秦歡)」
 
 子蘭の言葉を受けて、懐王は秦へ出かけました。

 が、帰ってきたときは死体となっていました。


 楚国内ではこの事実を受けて次の頃襄王(けいじょうおう)が即位しましたが、人々は一連の出来事を子蘭のせいだと考えており、屈原もその思いを隠しませんでした。

 子蘭は屈原が自分を憎んでいると知ると激怒し、上官大夫に彼を王の前で罵らせました。そこで王は、屈原を流罪に処したのです。



【汨羅に死す】

 子蘭が悪いと誰もが思っていましたが、誰もそれを口にすることはできませんでした。口にできたのは、屈原ただひとりです。

 流罪となった彼は、どうにか長江の岸辺に辿り着きましたが、そのときには体は痩せこけ、顔色もどす黒くなっていました。その姿を見た長江の漁師は、心配して屈原に声をかけます。

「あなたは屈原さまではありませんか。なぜこんなところへ?」

 屈原は答えました。
「世の中すべて濁りきっているが、私だけが清い。もろびと皆酔っているが、私だけがしらふだ。だから放逐されたのだ」

 漁師は呆れたように言いました。
「聖人と言われる人は、世の中に同化せずとも一緒に動くものです。世の中がすべて濁っているのであれば、その流れのままに波を上げ、衆人皆酔っているのであれば、その酒粕を食べ、醨(うすざけ)をすする……そうしてみてはいかがですか。なぜ心の美玉を抱きしめて、わざわざ放逐される目におあいなさるのか」

 漁師は、もっと柔軟な態度で物事に対処すればよいではないか、と言うのです。実にまっとうな意見ですが、これに対して屈原はまた答えました。

「髪を洗ったばかりなら、必ず冠の塵を払い落とし、湯浴みしたばかりなら必ず上衣をふるって埃を落とす、とわしは聞いている。清潔な身に、汚れた衣服を着せられる……そんなことに耐えられるわしではない。水の流れに入って、川魚の腹の中に葬られた方がましだ。純白の上に、世俗のどす黒さを被せられることに耐えられない」

「吾聞之,新沐者必彈冠,新浴者必振衣,人又誰能以身之察察,受物之汶汶者乎。寧赴常流而葬乎江魚腹中耳,又安能以皓皓之白而蒙世俗之溫蠖乎。」

屈原の言うことはわかりますが、強情ですね

 そう言い残した後、屈原は胸に石を抱え、汨羅江に身を投じました。

 楚はその後十数年して、秦に滅ぼされました。


 いかがだったでしょうか。屈原は非常に潔癖な性格で、曲がったことが大嫌いな人でしたね。楚国の国論は合従策ではなく連衡策へと流れていましたが、彼はその流れに逆らい、孤立した結果として疎まれ、追放されました。

 思うに当時の人々は、腫れ物を触るように屈原を扱ったのではないでしょうか。常に正論を吐く人は、往々にしてそのような扱いを受けるものです。

 屈原という人は聖人として現在も賞賛されていますが、私個人としてはもう少し……世慣れた立ち回り方をしてほしかったと思います。なぜなら、死んでしまってはどうにもなりませんから。

 ところで冒頭に、屈原が汨羅に身を投じたのは5月5日で、端午の節句の日だと申し上げました。この日、汨羅の周辺にいた人は舟を出し、先を競って屈原を救出しようとしたのですが、これがドラゴンボートレースの始まりだと言われています。

ドラゴンボート。これは広東省のものですが……
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 また、屈原が水中深く沈んでしまい、救出が不可能だと判明した際には、その霊を鎮めようと、人々は米を入れた竹筒を汨羅に投げ入れました。以降、これが毎年5月5日の風習となったといいます。

 ところがある日、屈原の霊が現れて、みんなの前で告げたのだとか。

「竹筒だと汨羅に住む龍に中身を横取りされるから、できたら米をセンダンの葉に包んで投げ入れてもらいたい」

 人々はその言葉に従いました。これが「ちまき」の始まりとなったのです。

「ちまき」・日本では笹の葉に巻きますね
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 最後になりますが、「楚辞」についてもご参考までにリンクを貼りました。色々な研究がされていますが、私は詩そのものについてはあまり詳しくないので、平気でWikipediaをご紹介いたします。

 上記リンクにも記されていると思いますが、屈原は政治家というよりも愛国詩人として名が残っています。が、そもそも実在を疑う研究者もいるようです(詩の作者としての話です。政治家としては存在したと私は思うのですが……)。

 冒頭の話に戻りますと、どんなに正論を言っても、仲間から弾かれてしまうと誰にも聞いてもらえない、最後には殺されるのだ、って話でした。
 皮肉なようですが、このあたりに人類が明るい未来を迎えるためのヒントがあるようにも思われます。

 正論を吐く側も、それを聞く側も参考にするべき話ではないでしょうか。


過去記事をまとめたマガジンです。こちらもぜひ。

それでは今回も最後までご覧いただき、ありがとうございました。
次回もお楽しみに!

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