「リアル・セカンズ」第2話

蛇々島じゃじゃじま傀蔵かいぞう。58歳。
蛇々島流合気拳術道場は、傀蔵が創設した一般向けの護身術教室である。
傀蔵が真に受け継いだのは、『蛇々島流拳殺術』。純然たる殺人術であった。


凪凪なぎなが間合いに入ったその時、傀蔵は袖に手を入れ、隠していた短刀を抜いた。峰を下に、刃を上に向けて握る。
「ふっ」
小さく息を吐く。
一歩踏み出し、短刀を突いた。
傍から見ればたったそれだけの動作だった。しかしこの時――傀蔵の体内では、凄まじい力の奔流が起きていた。
息を吐くとともに張った臍下丹田が、体幹に一本の芯を通す。一方で傀蔵はその他の筋肉を弛緩させ、抜力ばつりきした。重力への抵抗をやめた四肢は下へ引かれ、重心と結びついた。
重心を前傾させる。『重み』に引きずられ、抜力した脚と足が前に出る。地を蹴ることなく重力で前進する、いわゆる縮地。
まるで身を投げるように、傀蔵は出し抜けに疾走した。傀蔵の背筋はピンと張ったまま体幹を保ち、ぶれなかった。動いたのは、短刀を握る右手。
短刀を持つ右の腕もまた、抜力していた。筋力で独立することは、つまり重心との連鎖を断つことである。傀蔵は決して力を込めなかった。柄を握る手には、箸を持つ程度にも力は込められていない。掬うように握った指に、重力に引かれた柄が吸い付き、それをやはり重力に引かれた親指が固定しているに過ぎなかった。
一気に間合いを詰め、右足が着地する。
抜力した右腕が、肩を支点に振り子のように前方へほうられた。傀蔵が重心仙骨を微かに、ほんの数ミリ落としたことにより、『重み』が右腕に乗った。
疾走、重心、腕の自重が生んだ推進力は、短刀を凪凪の肝臓めがけて突き上げた。
百戦錬磨の傀蔵は小細工も忘れなかった。肩甲骨、肩、肘、手首の関節を柔軟にしならせた。小さな間合いの中で蛇のように暴れた短刀の切先は、縦横無尽の軌道を描いて襲いかかった。
右肋骨の下をくぐり抜け、体内へ侵入しようとした刃はしかし――虚空を突いた。
凪凪が半身を引き、傀蔵の右側へ体を逸らしたのだ。短刀は凪凪の肋骨の上を掠った。
「!?」
傀蔵は予期していなかった。足の運び、重心の動きからして回避行動の予兆は無かった。アクションを起こすとしたら腕を犠牲にして短刀を防ぐか、捌くか。それへの対応も数十通り、傀蔵は頭の中で用意していた。
(そうか!)
挙動一つで、傀蔵は悟った。長年の経験と武術家の本能が、理屈ではなく感覚として、目の前で起きたことを正確に読み解いた。
凪凪はまるで何かに引っ張られるようにして、腰を旋回させた。腰から動いたのではない。起点となったのは、その上。
(背骨か――!)
凪凪は瞬間的に、胸椎を右回りに捻じった。唐突に左へ傾いた重心に引き寄せられ、体は半身になり短刀を躱したのだ。
傀蔵とは真逆だ。重心が全く安定しない。
柔軟な脊椎で重心を変幻自在に操り、全身をまるで肋骨の延長のように振り回す。それが凪凪のスタイルなのだ。
(この小娘、騙しおったわ)
弟子を先にぶつけたのは、凪凪の戦闘スタイルを知るためでもあった。観察した限りでは、傀蔵とよく似た古流武術の動きだった。ならば動作も読み易い、そう思っていたが、観察を裏手に取られた。凪凪はわざと本当のスタイルを隠して戦っていたのだ。
(相当に戦り慣れているな)
猫尾凪凪ねこおなぎなは非力である。
161センチ53キロ。ウェイトトレーニングをしたことが無く、自重より重い物は持ったことが無い。
そんな彼女の『技』を支えるのは、軟らかく、そして硬い、脊椎。35個の椎骨の駆動が発揮する運動エネルギーが、筋力に代わり凪凪に大きな力を与える。
勝負はここからだった。
凪凪の動きは、回避のみで終わっていない。
右手で傀蔵の手を捕らえる。同時に、胸椎の旋回を利用した左の肘打ちを、傀蔵の右肘に叩き込んだ。
胸椎を中心とした回転の向心力が、肘に溜めの無い加速をもたらす。
さらに地から足を浮かせ、凪凪は全体重をかけることで肘に『重み』を与えた。また、地を踏まないことにより、胸椎から発生させた運動エネルギーをよそへ逃がすことなく、100パーセント肘へかけることができる。
『重み』を得た肘は、加速に加速を重ねる。速く、重たい肘打ちが、傀蔵の肘関節を直撃したのだ。
「ッッ」
傀蔵は思った。
(……ハンマー投げだ)
まさに今、ハンマー投げをしようとしている選手に無謀にも手を伸ばしたら。猛スピードのハンマーが激突し、腕が粉砕するだろう。
傀蔵が喰らったのは、そんな衝撃だった。
外にはパキンッという軽快な音が響き、体内にはグシャリという鈍重な音が響いた。
肘関節が砕かれ、上腕骨から尺骨と橈骨が抜け落ちた。
凪凪が傀蔵の手から短刀をもぎ取り、逆手に握った。
足が地に降りる。凪凪は、今度は胸椎を逆旋回させた。
先ほどと全く同じプロセスを反対向きに辿り、加速した右手を振るう。凪凪は短刀で傀蔵の頸動脈を一閃し、その傍らを通り抜けた。
「!」
傀蔵は左手で首を守っていた。手のひらは真っ二つに割れていたが、急所は無事だ。
ギュルン。
凪凪は胸椎を右旋回させた。
時を戻すように反対へ回った胸椎が、短刀を持つ手を後方へ急速に引き戻す。地を蹴り、凪凪は速力に全体重をかけて、傀蔵のうなじに短刀を突き立てた。
ドスリと、短刀が頚椎に深々と刺さる。
「~~~~ッ」
傀蔵は天を仰いだ。
――凪凪の『技』は、まだ止まらない。
胸椎の旋回を活かし、振り返り様の左の掌底を柄頭に叩き込む。ダメ押しの一撃が短刀をさらに奥まで沈み込ませ、傀蔵の喉から切先が飛び出した。
表面上もかなりショッキングだが、体内ではさらに壮絶なことが起きていた。
胸椎旋回の運動エネルギーは短刀を通して頚椎へダイレクトに伝わり、炸裂した。
上へ分散した衝撃は脳まで昇り、血管と神経を断ち脳細胞に致命的な損傷を与えた。
下へ降りた衝撃は、椎骨から脊髄へ連鎖する。破壊の余波は脊髄へ深く深く浸透し、例え生理的反射であろうとも、二度と、傀蔵に起き上がることを許さなかった。
「ッッ――……」
傀蔵の目から光が消える。膝を屈し、彼は座したまま絶命した。
「……」
凪凪は秋人の方へ歩き出した。
セカンズの戦いは、その多くが3秒で決着する。長くとも10秒はかからない。
それは彼らが現代に生き、匿名性と早期決着を求めるからでもある。監視社会において、映像記録に残ってなお何が起きたかを悟らせないほどの速さと、そこに不可欠な殺傷力をどこまでも研ぎ澄ませた。
それが彼ら、セカンズである。
猫尾凪凪と蛇々島傀蔵の戦いは――1.9秒で決着した。
「もしもし。鰐崎わにざきさん。私です。片付けをお願いします。はい。ええ。また今度。では」
凪凪は通話を終えると、携帯を鏡代わりにして顔についた返り血を拭った。南見の前で立ち止まり、凪凪は言った。
「終わりました。帰りましょう」
「あ、ああ」
凪凪は足早に部屋を出る。秋人は暫く傀蔵の死体から目を離せなかった


「満足していただけましたか?」
ビルを出てすぐ、凪凪はそう尋ねた。秋人は返答に悩んだ。
「すっきり……した」
「それは良かったです」
「礼、するよ。いくらだ。治療費でだいぶ飛んだけど、まだ試合の賞金とか残ってるし」
「いりません。お金のためにやってるんじゃないので」
「……じゃあ、何のためにこんなこと?」
「……」
「何の見返りも無しにやることじゃないだろ、こんな」
「こんな人殺し、ですもんね」
「違う!こんな危険な――」
凪凪は背を向けた。
「私、自転車のチェーン、直せないんです」
「え?」
「たまたま通りかかった人に、助けてもらって。どうしたらいいかわからなくて心細かったから、私……すごく嬉しくて。安心して」
「……」
「私も、心細い誰かの助けになれたらって。でも、私にできることは限られてるから。私にはチェーン、直せないし。南見さんの怪我も治せないし。できることをやろうって思ったら……これくらいしかなくって。これだけで、精一杯で」
「……」
「もっと他のやり方、できたら良いんですけど」
「……」
秋人は言わずにいられなかった。
カッケェと、思ってしまったから。
「いつも、一人でやってんの?こういうの」
「誰かとやるようなことじゃありません」
「……」
「送りますよ。駅ですか?」
歩き出そうとする凪凪に、秋人は言った。
「手伝おうか?」
凪凪は立ち止まる。背を向けたまま彼女は言った。
「お礼はいいです」
「違う、お礼とかじゃなくて。俺じゃ駄目か?」
「なんですか急に、そんなこと初めて言われましたよ」
凪凪はクスッとした。
「普通にオススメしないです。真っ当な生き方じゃないですし。金輪際、関わらない方が良いです。今日のことは忘れて――」
「忘れられねぇよ」
「……」
秋人は自分の体に目を落とした。
「……俺、死のうと思ってたんだよ」
凪凪が横目に秋人を見た。
「え?」
「病院で目が覚めて、自分の状態を知った時。犯人が捕まらないとか、関係無く。格闘技は俺にとって人生の全てだったから。それを失くしたらもう、生きてる意味なんて無ぇと思った。俺にはそれ以外、できることなかったし」
「……」
「あるかな。俺にもまだ……できること」
「……」
「なあ、今からでも、まだ……俺、人類最強になれるか?」
「……」
凪凪はまた向こうを向いてしまった。秋人は何かを言いかけて、声を詰まらせた。秋人が俯こうとしたその時、凪凪が言った。
「セカンズには、強いや弱いという概念はありません」
凪凪は歩き出した。
「生きてるか死んでるか。それだけです」
「……!」
凪凪の言葉がフラッシュバックする。
――『南見さんは負けたのではありません』
秋人は声を張った。
「じゃあ、生きてる俺の勝ちか?」
凪凪がこっちを向き、微笑んだ。彼女は何も言わなかった。
安堵したような、どこか悲しそうな。でも恐怖や冷たさは、もう感じなかった。
温かかった。

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