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算数と幽霊と現代社会

極端なものを考えてみよ。

デカルトも『方法序説』で書いていたが、これは実に便利な考え方である。

大学受験どころか中学受験でもこの考え方にはお世話になった。
分からなくなったら0とか1とか考えてみればいいのである。足すのか引くのか、かけるのか割るのか。迷ったときに確率1/2の賭けに出るというのも一つの方法だが、ちょっと試してみて欲しい。

だが、個人的には別の方向でもお世話になった。

子供の頃、何とはなしに暗闇を不気味に感じたことはないだろうか?
ホラーちっくな映画を観たとき、トイレに行きにくくなったことは?
これは別に必ずしも幼稚ではないだろう。
例えばヨーロッパには丸い家を作らない習慣があるという。四角い家なら角の方は光が届きにくくなってそこが暗くなる。そういう見えにくいところに精霊がいると考えるそうだ。普通なら丸い家を作って暗い部分なんて無くしたれと考えそうなものだが、精霊は必ずしも悪いものばかりではないと考えるらしい。
こういう考え方はけっこう好きだったりする。

何はともあれそういう不気味なものというは小学生の私にとって睡眠の大敵だった。
目を閉じれば目の前に何かいるんじゃないかという気がしてくる。だからといって目を開けても安心はできない。何度いないことを確認したところで、死角に隠れている可能性は消えないのだから。そうやって瞼の上下運動をしていると段々覚醒してきて、さらに交感神経優位になっていく。
私にとっても嬉しい話ではないが、親にとってはもっと嬉しくない話だったろう。

だが、私はとある悪夢を転機に革新的な気づきを得た。
それはこんな悪夢だった。
白装束をまとった典型的(?)な幽霊だったと思う。そいつがやってきて私の足首を掴むという夢だった。悪夢あるあるだが、私の身体は夢の中で全く動かなくて、為すがままにされている。このままどうやって殺されるのかと怯えていた私は結局それ以上何もされることなく、その幽霊は消えていった。
翌朝起きた私は掴まれた方の足首が痛くて、あの夢は本当だったんじゃないかと思ったが、今思うと因果関係は全くの逆だったのだろう。
なにはともあれ、その翌日の夜は私にとって恐怖の最高潮であった。またあの幽霊が来るんじゃないか? 今度は何をされるんだろう。そこまで考えていた私はある時ふと気づいてしまった。「殺される以上のことは無いのでは?」
今思えばこの幽霊に対する恐怖の核心は「想像できないこと」であったと思う。私自身の想像力の貧弱さ故に恐怖は具体的な焦点を得ることなく肥大化していったのだ。だからこそ、殺されるという「極端」な例を思い浮かべた瞬間に自分の想像力の貧弱さを自覚できたのである。
その気づきを得た瞬間から私は幽霊の恐怖から解放された。怖いと思ったら「極端」なものを想像してみる。するとせいぜい首を絞められるとかそんなテンプレな画しか浮かんでこないのである。実際に首を絞められたらたまったものではないのだろうが、そこは貧弱な想像力のお陰でテンプレ以上には思えない。

最近はVUCA時代などと言われる。「Volatility(変動性)」「Uncertainty(不確実性)」「Complexity(複雑性)」「Ambiguity(曖昧性)」の頭文字を並べたものらしいが、要は先行き不透明な時代ということだろう。

そんな時代は怖い。何が正解か誰も知らないのだから、もちろん教えてくれるはずがない。
そんな世界はあの時の私にとっての「幽霊」だ。得体の知れない恐怖は日々精神を蝕んでくる。そして恐怖をそのままに抱えていける人間なんていないから、無理な線引きをして「敵」「味方」に分けようとしたり、詐欺まがいの言説に引っ張られたりしてしまう。
だが考えてみて欲しい。そんな不気味な社会だって乱暴に「極端」を言えば「死」以上の何かを与えることなんてできはしないのである。そう考えてみると少しは楽になったりしないだろうか?

「極端を考えてみる」というのは存外人を楽にしてくれるものではないだろうか。

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