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それでも私が仕事を続ける理由


人生山あり谷ありって言うやろ。良いこともあれば悪いこともある。でもこの世で起きたことは必ずこの世で解決するもんやで。

親しい友達とけんかした。確かそんな他愛もない、しかし子供にとっては大きな出来事に沈んでいた僕に、祖母が頭を撫でながら優しく教えてくれた。確かにその後仲直りして、おばあちゃんの言うことは正しいんや、って安心した覚えがある。

ふとそんな30年以上前のできごとを思い出した。

noteは実に面白い。書くネタを探していると、そんな忘れていた古い記憶が急に甦ることがある。

続けて思い出す。比較的新しい記憶だ。世間がコロナウイルスという新しい脅威の登場に右往左往していた4年前、大人になった私の前にはある意味ウイルスより恐ろしい存在が現れた。
彼のことをキングと呼ぼう。

どん底は突然やってくる。やりがいのある職場が、パワハラキングによって暗い灰色の世界に変わった。

在宅ワークという新しいスタイルが始まり、出勤しないと進まない『研究』という私達の仕事は大きな影響を受けた。

当時グループ長という立場だったキングからしたら、仕事ができず自分のグループが成果を出せない不安、メンバーの仕事ぶりも見えない不安、そしてそれがいつまで続くか分からない不安が大きくのし掛かったのだろう。

その時キングは明らかに冷静さを欠いており、不安をぶつけるサンドバッグとして私が選ばれた。
当時一番身近でキングを支えていたはずの私が何故か選ばれた。

メンバー全員に送るメールで私の悪口を書いたり、家で仕事をしていたら突然電話が来て怒鳴られる。書くのも嫌になるくらい全てを否定される毎日。

そんな日が一年続いた。

私はすっかり別の人格になっていた。
それまでの明るい私はいなくなり、現実から逃げるように『あつまれどうぶつの森』の世界で無邪気に虫を追いかけるしかなかった。
家族の前でも笑うことが出来なくなっていた。

大学時代にお世話になった先輩からの飲み会の誘いも、既読すらつけることなく無視し続け、マイトン死亡説が流れた。

確かに私は生きていなかったのかもしれない。

もはや、キングがどうこうではなくて、自分が出来ないのが悪いのだ、としか思えなくなっていた。

壮絶な毎日だったが、それでも私は会社を辞めなかった。

結局は、随分経ってから「生きてます」の5文字を返した私に会うために、大学時代の先輩は飛んできてくれた。

そして明確に「お前が間違ってるんじゃなくて、その上司がおかしい」と言ってくれた。

その言葉にすっと呪縛が解けた私は、翌日組合に相談して地獄を抜けることになる。

冷静に当時を思い返すと、キングは確かに私ができないことを的確に指摘してくれていたように思う。ただ伝え方が壮大に間違っていただけ。キングのブレーキ、キンブレがちょっとぶっ壊れていただけ。

呪いの言葉を吐くくらいなら、自分が変わる方がいい。

ぽっかり空いた一年をなんとか取り返したくて、必死で自分を見つめ直して、仕事のやり方を変えた。

さらに一年後には、キングを前にすると言葉が出なかった私はすっかりいなくなり、

「当時は至らない私にご指導くださりありがとうございました。色々とご迷惑をおかけしてすみませんでした」と笑顔で言えるくらいになった。

そんな地獄の日々、頭のすみっこにずっと居て、強い光を放つ思い出があった。

父の働く姿だ。

父はもともとONWARDという会社で営業をしていたが、数年で安定した生活を捨てて、祖父が営む洋服屋で働き始めた。
大阪の下町の商店街で、虎柄のセーターやヒョウ柄のセーターを扱う小さな店。

祖父と父、そして父の兄夫婦で経営していたが、祖父が亡くなったタイミングで父は実の兄からリストラされた。

当時私はまだまだ子供で、家に起きた一大事も知らされなかった。ただ、何故か父が仕事を辞めたらしいことと、それ以来父方の田舎に帰らなくなった事実だけは認識していた。

そこからの父はすごかった。

40歳越えて資格もないオジサンができる仕事はそう簡単に見つからない。だから、選り好みもせず、職安で紹介された仕事はなんでもやっていた。きつい体力仕事でも家で文句も言わず家族を支え続けてくれた。

恐らく父も幼い頃から、

人生山あり谷ありって言うやろ。良いこともあれば悪いこともある。でもこの世で起きたことは必ずこの世で解決するもんやで。

この言葉を聞いて育ったのだろう。

辛くても忍耐強く愚直に頑張る。
そんな父の血を引く私も、逃げることなく耐えたから、今こうして毎日家族の笑顔を見れている。

これが私が仕事を続ける理由。

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