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幕間 芸能人格付けTVをめぐって―GACKT、 価値、嗜好、古典

 招かれて友人の家に数人で集まった。その日の企画は、みんなでワインを飲みながら、芸能人格付けTVを見て、腕くらべをするというものだった。新年恒例の人気番組らしい。
 選ばれた課題は、室内楽。ストラディヴァリウスをふくむ総額数十億円の名器の合奏と、数百万の一般の楽器。同じ演奏者が同じ曲を奏で、音だけ聴いてどちらが名器の方か当てるというクイズである。
 
 われわれは、オーディオマニア、レコードコレクター、楽器が趣味というような音楽愛好家の集まりである。いずれも負けられぬ戦い。和気藹々の雰囲気に緊張がはしった。

 さっさと結果をいえば、なんと、五人中三人がはずしたのだった。その一人であるオーディオマニアは、あざ笑う主催者にむかって

――おまえんちのテレビの音が悪いから、聞き取れなかったんだ。おれんちでやれば楽勝だよ。

 と、怒鳴った。

 幸いにして、私は的中させることができた。けっしてテレビの音質のせいではない。正直いって、「楽勝」だった。はっきり落差が聴きとれた。出演者のガクトさんがいっていたように、「はずしようのない問題だ」と感じた。

 なのに、三人もはずしたのである。それも日ごろから、エラソーに能書きをたれている連中ばかり。

 かれらは「はずしようのない問題」を、どうしてはずしたのかーー。

 私はそこに疑問をもった。もちろんプライドをかけた判断なので、過度のプレッシャーでわれを見失ったとか、つい設問の裏をよんでしまったというような、心理的要因もあろう。
 だが実際は、そんなこと考慮する必用のないくらい、「楽勝」問題だったのだ。

 そこで私の得た結論は、単純な話、かれらはストラディヴァリウスがどのようにいい音なのかを知らないからだ、というものである。いいかえれば名器が名器たるゆえん――その価値を理解していないということだ。

 かれらはオーディオやバッハや、コルトレーンを語らせたら尽きることのない蘊蓄を誇る連中である。けれどもそれは、かれらの嗜好を軸に形成されたものだ。
 たしかに「好み」は、価値に関係づけられたものではあるが、価値それ自体ではない。そこをかれらは解っていない。

 おおざっぱにいえば、価値とは縦の軸であり、好みは横の軸である。

 たとえば人の車に乗っけてもらうと、カーステレオの音がシャリシャリのことが多い。高音ばかりで中音域が聞こえない。そういう設定にしているのは、そういう音がその人の好みであるからだ。しかしそれを、「いい音」とはいえない。

 新しい安い楽器は倍音が少ないので、よくいえば、すっきりした音といえなくもない。憐れなわが友は、そこにだまされたのだとおもう。

 ストラディヴァリウスの良さは、のびやかな高音、ぜいたくな中音域、響く低音の絶妙なバランスにある。そしておそろしいほどの倍音。
 ギタリストはよく、「このギターは音が太い」といういいかたをするのだが、それもバランスの良さと倍音の豊かさを意味している。文字通りの「太さ」ではない。その反対は、「瘠せた音」だ。たんなる空気の振動が人を感動にさそう理由がそこにはある。

 しかしそれも、お前の「好み」じゃないか、という反論も、当然、ありうる。オッカムのように、普遍の価値などない、と。
 実際、お前は古典主義者だからな、と悪友から罵声をあびせかけられる。そんなことはないけどな。前衛も好きだよ。

 タテの軸は目に見えない。数値で可視化することもできない。否定したくなるのも無理はない。――それでも、厳然とあるのだ。
 下手の横好きでも、ギターを一生懸命に弾いていると、必ずいいギターが欲しくなる。真摯に取り組めば、音の差や弾き心地が解るようになり、縦の線がしだいに見えてくるからである。それはコレクターの所有欲とはまたべつのものだ。

 その意味では、古典とは、たしかにそうした普遍的価値を体現するものではある。

 嗜好は千差万別で、人の数だけ存在してもいい。だが、価値という縦の軸の頂点は一つであり、それは「理想」である。ストラディヴァリウスはヴァイオリンの中で、もっとも理想に肉薄した楽器であり、それが名器たるゆえんなのだ。もちろん六十棹くらいあるストラディヴァリウスにもそれぞれ個性があり、縦の軸にそったランクがある。

 トルストイは晩年に、これまで何度も折にふれてシェークスピアを読んできたがくだらないと感じてきた、それでも自分の間違いかもしれないとおもって全作品をふたたび読みかえしたが、やっぱり愚かな作品である、と真剣に語っている。すごいジジイだ。
 じつのところ、トルストイはシェークスピアを、自分の主義主張を語るダシにしているだけなのである。

 そのトルストイの作品もまた、近代文学の古典とみなされている。そこに異を唱える人も少なからずいよう。

 好みの点でいえば、私もトルストイ作品は好きではない。しかし、偉大な作品であることを文句なしにみとめないわけにはいかない。やはり、縦の軸と横の軸は、明確にちがうのである。
 古典といわれるものは、たんにすぐれているからではなく、時を超え文化をも越えた鮮烈な生命力を保持しているものだ。

 私が福田恆存を読みはじめたころ、ふつうに書店で買えるのは、中公文庫の二冊だけだった。私はまだガキだったが、お兄さんたちが崇拝していたのは、吉本隆明とか江藤淳などだった。書店にはかれらの関連本があふれていた。しかしどうだろう、時の流れは残酷で正直だ。いまやかれらの本を書店で見出すことは稀れである。
 それにたいして、福田恆存はむしろいまの方がかれの著作をかんたんに手にできる。若い読者を獲得できているからである。小説家ならまだしも、批評家では稀有の現象といえる。まさに「甦る福田恆存」である。現代の「古典」と私はいいたい。

 ストラディヴァリウスにしても、シェークスピアにしても、プラトンにしても、紫式部にしても、そして福田恆存にしても、当時のすがたのままで現代に生きるわれわれの心を打つ。それが古典の価値である。ビートルズだって、解散してもう半世紀が過ぎた。
 
 われわれがその目に見えない価値を知るためには、自分の嗜好や主義主張をすてて、裸で古典と向き合うしかない。そのような態度でしか、縦の軸を学ぶことはできない。

 その点、連勝をつづけるガクトさんは、リスペクトに値する。その記録は本人の才能だけではなく、何事にも真摯に迫ろうとする謙虚な姿勢なくして、とても達成しうるものではない。かれには縦の軸が見えているのであろう。

注) 昨年、岩波文庫にオルテガの『大衆の反逆』の新訳がおさめられた。いまでも翻訳が数種類でているのだが、これまで未訳だった「英国人への序文」がはじめて収録されている。これもまた、古典のあつかいをうけている書物の一つであることは明らかだ。
 私が学生の頃、翻訳がないので英訳で読んだオルテガの著作も、すこしづつ翻訳されてきている。めでたいことだ。

福田恆存さんや、そのほかの私が尊敬してやまない人たちについて書いています。とても万人うけする記事ではありませんが、精魂かたむけて書いております。