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私の衝動を解き明かす。


https://x.com/houkago_kitsune/status/1774023896737722737

1. はじめに

何か面白い本はないかなと、ネットを散策していると、とても心が魅かれる本に出逢えました。私は漫画が大好きなんですが、なかでも魚豊先生のファンで、代表作である『ひゃくえむ。』『チ。ー地球の運動についてー』は何度も読み返し、反芻をして実生活に反映させています。

そんな作品が帯に使用されているということで私はまんまとジャケット買いをしたわけです。これがなんとドンピシャリ。様々な生き方が尊重される昨今、「自分らしくあること」が必要以上に美化されていると個人的には感じているのですが、本書はその流れを助長するでもなく、批判するでもなく、「自分らしさ」の持つ曖昧さについて多角的に分析しています。

基本的には、今後自分が変化する可能性を抑圧し、今まで変化してきた過去を否定して、「本当にやりたいこと」という安直な言葉によって自身の行動を運命化してしまうのはもったいない行為なのではないか?というスタンスで論じられています。著者の谷川嘉浩さんは京都芸大の講師、哲学者、かつ漫画にも精通している方なので様々な分野・視点から分かりやすい例を列挙してくださっており、非常に読みやすかったです。

さて、私が本書をテーマにしてブログを執筆したいと思った理由は大きく分けて2つあります。1つは、未読の方に目線を合わせつつ本書の内容を噛み砕き、自分なりに再解釈したいということ。もう一つは、本書のプロセスに自身を代入してみて、私個人の持つ衝動や偏愛を探ってみたいと思ったからです。

ほぼほぼ無計画のまま書きながら考えているので自分でもどういう帰着をするのか予測できませんが、未読の方にも分かりやすく説明できるよう尽力いたしますので、最後までお付き合いいただけたらと思います。

2. 「衝動」の定義とその特性

2-1. 衝動の定義とは

ページを捲るたびに、テーマである衝動という言葉に、何度も何度も出会うことになります。本質的には一貫しつつも、姿形を変えて出てきます。そこで、まずは本書で語られる衝動について整理してみることで、未読の方と歩幅を合わせつつ、理解度を高めていくことにします。

実際に読み進めていくと、著者の谷川嘉浩さんが意味する衝動と私がこれまで考えていた衝動の間に大きな乖離があり、そこにまず驚きを覚えたので、一度広義的な意味と比較してみることにします。

1 外から強い力や刺激を受けて心を動かすこと。

2 動作または行為を行おうとする抑えにくい内部的な欲求。目的が完遂することによって消滅する。「叫びたい—に駆られる」「—を抑える」

デジタル大辞泉(小学館)


上記がネットで検索をかけて出てきた一般的に認知されている衝動の定義です。外側から生まれる欲求と、内側から生まれるものの2パターンがあるわけですが、いずれも一時的かつ突発的な欲求といった印象を受けます。では、ここで本書で意味している衝動に目を向けてみましょう。

(前略) 衝動というと、カッとなって人を殴ったとか、キュンとして手を握ったとか、そういう一瞬の感情的高まりを意味するものだと思われそうです。しかし、この意味での衝動と、本書の「衝動」は別のものです。(中略)「衝動」とは、人生のレールを外れる欲望と言えるかもしれません。人生のレールを外れるといっても、逆張りをして意図的に外れるわけではありません。衝動とは、そこにレールがあるかどうかを気にせず走っていく力のことだからです。

人生のレールを外れる衝動のみつけかた 29p


計画的・意図的ではないという点では共通していますが、やはり意味に大きな違いがあります。人生のレールを外れるというのは、便宜上、不安定な生活や社会や他者の期待に応えないということで解釈しておきましょう。著者の意図する「衝動」の輪郭をなぞることは出来ましたが、まだ抽象的ですよね。もう少し具体的な表現を見てみましょう。

自分でもコントロールしきれないほどの情熱、過剰なパッション、非合理な欲動、直感。こういう言葉で指し示そうとしているのは、やむにやまれぬ感覚、つまり、合理的な説明のつかない衝動のことです。

人生のレールを外れる衝動のみつけかた 16p

「何かを学びたい、身につけたい」と思うとき、衝動がその背景にある方がずっと持続するし、遠くまで行くことが出来ます。今の自分の手が届く範囲を超えて、ずっと遠くのものに触れるために何かを学びたいのだとすれば、きっと「衝動」が必要です。

人生のレールを外れる衝動のみつけかた 28p

実験には、成功が約束されていません。(中略)白黒のどちらにも定まらない不確実性や、白黒どちらかに定まっているとされることへの疑いこそが、実験を可能にしています。(中略)プラグマティックであるとは、飽くことのない実験精神を持つことです。言い換えると、衝動はプラグマティックな実験の営みを駆動するエンジンのようなものなのです。

人生のレールを外れる衝動のみつけかた 231-232p


一般的な意味としての衝動は、傍から見てもその原因が分かりやすい気がします。ダイエット中に甘いものが目に入って食べたくなったとか、仕事のストレスがたまっていて高額な買い物をしてしまったとかですね。

一方で、本書で述べられている「衝動」は他者を納得させるような合理的な説明から零れ落ちたものです。知りたいから、やりたいから、そうした個人的な欲求に宿るものなのだと思います。一般論と著者の主張を対比させることで差異が明らかになりました。さらに詳しくみるために、著者の結論としての衝動の定義を見てみましょう。

本書では、個人的で特定化された具体的な欲望のことを「偏愛」と呼んでいます。(中略)偏愛は他人と共有できないかもしれないし、合理性もないかもしれない。こうした偏愛の延長に衝動はあります。偏愛は、衝動が具体的な行動としての出口を見つけたときに用いられる言葉です。だからこそ、偏愛をほどほどに一般化すれば、衝動を言い当てることが出来ます。衝動は、解きほぐされた偏愛のことです。

人生のレールを外れる衝動のみつけかた 82p-83p


即ち、衝動とは個人的で特定化された具体的な欲望の源泉であるといえると思います。個人の衝動を明らかにしたいのであれば、先ず個人の持つ偏愛を特定し、それを掘り下げたうえで衝動へと戻していく作業が必要になるということです。

さて、ここまでで衝動の定義が明らかになりました。そして、衝動を知るカギが偏愛であるということも併せて知れました。ただ、私としてはコーチング理論でも用いられる「内発的動機」との違いがイマイチはっきりしないため、次項では衝動の持つ特性について具体例を挙げながら整理してみることにします。

2-2. 衝動の特性とは

衝動の特性をまとめる、即ちその正体を明らかにするために著者は様々な既出の研究を再解釈することで解像度を高めていました。この項では、他の欲求と区別するために、衝動固有の特性を具体例と共にまとめていきます。

case.1 ダニエル・ピンクの『モチベーション3.0』

アメリカの文筆家であるダニエルピンクは人間の行動選択の要因とされるモチベーションを以下のような3つの型に分類しました。

  1. モチベーション1.0(生理的動機)

  2. モチベーション2.0(誘因による動機)

  3. モチベーション3.0(内発的動機)


モチベーション1.0に関しては非常にシンプルで、お腹が空いたからご飯を食べたとか、眠たかったから昼寝をしたなどの生理的な動機です。

モチベーション2.0には正のインセンティヴと負のインセンティヴの2種類があります。例えば昇給のために資格試験を頑張るのは正のインセンティヴ、留年回避のために試験を頑張るのは負のインセンティヴです。簡潔に言うと、報酬を得るためや損失を回避するための動機です。

モチベーション3.0は自分の内側から湧き出る「やりたい」という動機です。他人から承認されるからとか、金銭的メリットがあるからなどではなく、好きだからやる、関心があるからやるといった動機です。

例として個人的な活動を挙げさせていただくと、ブログの執筆がこれに該当します。読者のことを想定はしていても読者のために書いているわけではありません。考えを文字に起こしながら整理していくのが好きだから書いています。

そうすることでテーマに関して深く思考することを可能にしてくれますし、日を置いて読み返すことで当時の考えを振り返ることが出来ます。いわば、思考のタイムカプセルのようなものとして活用しているわけです。ブログ化するのは本当に書きたいと思った内容のみであるため、不定期ではありますが趣味の範疇として心地よく続けることが出来ています。

ここまでみてみると前項で記述した通り内発的動機と衝動は似通った性質を持ちます。ただ、私個人の例で見せた通り、内発的動機は他者からある程度は共感を得れるような合理的な説明が出来てしまいます。衝動との大きな違いはここにあります。なぜなら衝動とは非合理な欲求だからです。合理的な説明から零れ落ちる何かがあります。

case.2  ルーク・バージスの『欲望の見つけ方』

アメリカの作家・企業家であるルークバージスは著書『欲望の見つけ方』で人間の持つ欲望を濃い欲望と薄い欲望に分類しました。それを本書では強い欲望と深い欲望として捉えなおしており、この深い要望が衝動に当てはまります。

強い欲望とは所謂、裕福になりたいとか、モテたいとか、何者かになりたいといった、他者を起点とし相対的に見た際に浮かび上がってくる欲望のことを指しています。そして、この手の欲望はしばしば感情の強さ=欲望の強さとして捉えられることがあります。コンプレックスなどもこれに該当するのでしょう。

しかし、著者は欲望に伴う感情の強さは衝動において本質的なものではないと主張しています。これまでまとめてきた内容を思い返してみてもそうですよね。強い感情が伴うこれらの欲望は衝動と勘違いされやすいですが、一時的で持続性がない場合が非常に多いです。

物欲を例にするとイメージがしやすいかもしれません。私たちがブランド品や高級品を欲しがる際に、そのモノの機能性や価値を勘案してそれを欲しているのか、はたまたそれを所有している自分を他者に見せたいのか。衝動買いをした商品はおそらく後者によるものが大半なのではないかと思います。また、そのような消費活動では購入して満足してしまうことが多いかと思われます。このこともまた、強い欲望が一時的で持続性がないことを証明していますよね。

著者が衝動の特性を解き明かすべく着目したのが欲望の深さです。深い欲望、即ち衝動は他者を起点とせずに、必ずしも強い感情が付随するわけではないため、知覚することが難しいです。そのことが分かりやすく述べられている箇所を抜粋すると以下の二つが挙げられます。

常にトレンドや世間的な「正解」が何なのかを気にする「他人指向型」の欲求は、自分の中に原動力を持たないという意味で、「深い欲望」とは言えません。〈中略〉「深い」は、便宜的なラベルにすぎません。必ずしも感情的強さを伴わず、かつ、他者起点で形成された欲求とは異なるため知覚しづらい欲望に対して結びつく形容詞だという以上のイメージを持たずにいるといいと思います。

人生のレールを外れる衝動のみつけかた 61p-62p

娯楽やSNS、ニュースなどでも劇的な刺激や誇張された表現は珍しくありません。常々強い刺激にさらされているため、現代人は「自分を突き動かす欲望は強烈なものであるはずだ」と考えてしまいがちです。深い欲望に気づきづらい背景には、私たちの感性が強さ基準で反応するセンサーになってしまっているという事情があるわけです。

人生のレールを外れる衝動のみつけかた 65p


要するに、我々が日頃生活している中で養われる(誘導される)価値基準に従って自身の行動を選択すると、往々にして世間一般のレールに寄ってしまい、各個人の持つ偏愛と実際にやっている行動との間にギャップが生まれるのだと解釈しました。そうして生まれたギャップは生きていく上での違和感というか、心のしこりになって徐々に表出していくのだと思います。

この項では衝動固有の特性をまとめてみました。簡潔にまとめると、衝動はその非合理さ故に他者と共有することが難しく、強い感情を伴わず生まれるものであるため捕捉がしづらいということでした。本書で語られる内容についてある程度理解が深まったため、次項では私自身の衝動について探ってにることにします。

3.  私の「衝動」を解き明かす

3-1.  私の偏愛について

さて、ここまでで本書で語られる衝動の定義と固有の特性についてザックリとまとめましたが、これだけでは谷川嘉浩さんの作品をサマライズしただけの読書感想文になってしまいますので、本ブログの2つ目の目的である私自身の衝動について探っていきたいと思います。

これがまさに本筋であり、私が書きたかったことであったため、振り返りとして要約までを書き上げてから約1か月半の思索にふける期間を設けました。その間に著者のpodcastを拝聴し、Youtube上にアップされているワークショップの動画や関連書籍などにも目を通し、じっくりと考えてから導き出した私の〝現時点での〟結論を書き出してみることにします。

本書は、偏愛とは衝動が具体的な活動の形をまとったときの意欲につけられた名前だと規定しています。そして偏愛をほどよく解きほぐすことで固有の衝動を見つけ出すことが出来るとのことであったため、衝動を見つけるために私の偏愛について探っていくことから始めました。

著名でもない私の自分語りを長ったらしく見せられても面白くないと思いますので、先に結論から述べます。セルフインタビューを通して私の趣向を探り、集まったデータの細部まで掘り下げ、解釈という過程を経て、私の持つ偏愛は「研究をすること」であるという結論に至りました。

前の項で私のブログ執筆活動はモチベーション3.0に分類され、他者からの理解が得られるような合理的な説明が出来てしまうものだと断言しました。しかし、職場の先輩やプライベートの友人に私がブログを執筆していることや、それに大量の時間を投資していることを話すと引かれることの方が多いということに気が付きました。

まさに、「え?なんでそんな非効率なことをその熱量で?」といった反応です。私としては文字起こしをする=深く物事を解釈することといったように自然と一体化しており、思考整理のために程度は異なれど学生の頃から言語化を行っていたため、日常的なこととして処理してしまっていたのだと思います。

自身で読み返してみてもそう感じます。本書で語られる合理性を勘違いしていたのかもしれません。ブログ執筆の目的などに対する理屈はある程度通っているかもしれませんが、「そうとはいってもそこまでするのか」といった非合理性が隠されていたのだと今となっては感じます。読み手の方は前項の段階で違和感があったかもしれませんが、やはり自分のことなので知覚しづらかったのでしょう。

私は実生活の中で抱えたモヤモヤを言語化する場合、それに関連する書籍や動画などを片っ端から漁った上で、納得するまで突き詰めるという傾向があります。これは自分でそうした方がいいと思って選択する行動ではなく、強迫的にそうせざるを得ないというか、自分を制御するブレーキが壊れる感覚に襲われる事があります。そしてよく眠れなくなり私生活に影響を及ぼすことがしばしばあります。

趣味のブログ執筆以外に仕事面でも、「研究をする」という形で発現する私の関心があります。それは認知科学・言語学・第二言語習得論などにおける英語教育法の勉強です。英語講師という職業上そういった知識を身に着けておく分に損はないといった打算的な面も確かにあるのですが、これらの勉強は非常に難しく、究極的につまらないんですよね。特に言語学は暇人の学問であるとよく言われますが本当にその通りだと思います。コスパもタイパも悪すぎます。

また、英語を日常会話・ビジネスで運用する際や試験勉強に対してこれらのノウハウを活用することはあっても、知識の勉強は全くもって不要であると言えます。これに関して最近英語母語話者と議論したのですが、ネイティブスピーカーやそれに近しいレベルで英語を運用している人々は「英語はそういうものだ」として変換のプロセスを経ずにナチュラルに運用しているわけです。学習者の脳内にこのような知識が組み込まれると、かえって複雑化してしまうリスクをはらんでいるとさえ言えます。

私は指導者である前に一人の英語学習者であるため、上記の勉強以外に資格試験の勉強や発話の練習なども行っています。ただ、言語学の知識を身に着けたからといって私の英語力が劇的に変わっていくという感じは全くありません。また現在は英検1級の取得とTOEIC950以上を目標に資格試験の勉強をしていますが、それがもう全身から拒絶反応がでるくらいに面白くないんです。逃げ出せるもんなら今すぐにでも逃げ出したい。

私は本質的には英語が好きではないのだと思います。英語について学べば学ぶほど母語話者と第二言語話者を隔てる壁の高さと分厚さをまざまざと感じさせられ、一向に上達しない自分に嫌悪感を抱きます。それでも休日になるとペンを握り机に向かう自分がいます。面白くないと分かっているのに、自己嫌悪に陥ることが分かっているのにです。そのことをじっくり紐解いてみることで、私の持つ「衝動」が明らかになりました。

3-2.  私の衝動について

私の持つ衝動は「他者に〝分かりやすく〟説明すること」です。もしかしたら今後変わるかもしれませんが、少なくとも現時点ではそうとしか思えないので一旦の結論としておきます。

書籍や日常的に得た学びを説明形式に落とし込むことで、内省の方向性を整え、精度を高めることを可能にしています。他者に説明するにはそれなりの知識と技術が必要です。10の事柄を説明したければ、15知っておく必要があり、上手く伝わるように創意工夫せねばなりません。

知識の吸収や反芻も、自分一人だけで行うほうが楽で速いです。そこに他者を意図的に介在させることによって、要するに仮想の相手を設定し、説明するという十字架を背負うことによって、研究するという偏愛を呼び起こしているのだと気づきました。

英語教育法に関する勉強についても同様のことが言えます。昨年末に自分の発音向上のためにELSASPEAKというAI学習サポートの年間契約に登録したのですが、面白くなさ過ぎたので継続できませんでした。英語学習が継続しないというよりは、自分のためだけに行う学習に私の感情が乗っかってくれないのです。

同じおもしろくない資格試験の勉強や言語学の勉強が継続できているのは、それを勉強することによって説明の質が洗練されるということを身をもって体感しているからです。生徒というアウトプット先が確約されており、学習者としての勉強を指導者の目線で行うことができるため吸収の速度も、質も、己のためにやる学習とは一線を画します。

働いていて、本が読めなくてもインターネットができるのは、自分の今、求めていない情報が出てきづらいからだ。求めている情報だけを、ノイズが除去された状態で、読むことが出来る。それが〈インターネット的情報〉なのである。

三宅香帆著 なぜ働いていると本が読めなくなるのか 201p

「情報」と「読書」の最も大きな差異は、前章で指摘したような、知識のノイズ性である。つまり読書して得る知識にはノイズー偶発性が含まれる。教養と呼ばれる古典的な知識や、小説のようなフィクションには、読者が予想していなかった知識が登場する。文脈や説明のなかで、読者が予期しなかった偶然出会う情報を、私たちは知識と呼ぶ。

三宅香帆著 なぜ働いていると本が読めなくなるのか 205p


同時期に発売された新書『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』を読んだことによって自己理解を一歩進めることが出来ました。私は情報を掲示する人間ではなくて、どうやら知識を与える人間になりたいと思っているようです。魚の居場所を教えるのではなく、その捕らえ方を教えたいのです。

情報としてはつまらない英語学習に知識を織り交ぜて興味関心を煽りたい。つまらなくて分かりにくい英語を面白く分かりやすく説明したいという衝動が、教務研究という具体的な形をまとって私を突き動かしているのではないのかなと思います。


4.  おわりに


今回は京都在住の哲学者である谷川嘉浩さん著の『人生のレールを外れる衝動のみつけかた』を読み、先ずは要約形式で読者と目線を合わせたうえで、私個人の持つ偏愛や衝動について探っていきました。

私固有の偏愛は「研究すること」であり、衝動は「説明すること」であると結論付けましたが、それは現時点でのものです。今後変わる可能性は十分にあり得るし、それらに支えられている現在の英語講師という職業が変わることも多分にあると思います。

しかしながら、今回それらを読み解いたことによって、今自分が歩むべき道のりが明確になったと確信しています。たった10000字程度の記事を仕上げるのに約2か月の期間を要しましたが、この記事の創作期間は本当に楽しかったです。まさに締め切りのない作品にのみ許される愉悦の時間でした。


この動画の中で谷川嘉浩さんは「他人に評価されるされないに関わらず、与えられた仕事以上のものを自分なりに受け取り、満足感を得ることに対して凝ったほうが良い。誰かに伝わらなくても、でもここはこだわっておきたいという自尊心の置き所がある方が人生楽しい。」と語っていますが本当にその通りだと思います。良き凝り性を生活に実装させた方が普通に人生楽しい。

元々『チ。-地球の運動についてー』が好きであったことをきっかけにこの作品に出逢えたので、作中で私が好きなシーンを紹介します。

チ。第3巻 参照
チ。第3巻 参照
チ。第3巻 参照


読書が趣味ですと他人に語ると、それだけで賢いねと言われる事が最近増えてきました。それだけ世間一般的に読書のハードルが高まっているのだと思います。私にとって読書は勉強というより他人の人生を擬似体験する娯楽だと思っている節があります。三宅さんの本でも語られていましたが、もう少しカジュアルに読書を楽しめる社会になってほしいなと心から願うばかりです。

特に今回のテーマである本書は谷川嘉浩さんが4年もかけて書いた本です。4年といってもそれは制作期間だけの話であり、そこに詰め込まれてる知見は4年以上もの歳月をかけて醸成されたものです。それが1000円そこらで買えるって普通に衝撃的じゃないですか?

もし私の記事を読んで少しでも興味を持っていただけたのなら、書店に足を運びぜひ本書を手に取っていただきたいなと思います。タイトルこそ〝The 自己啓発本〟という印象を受けますが、全然そんなことはないのでオススメです。合わせて、チ。もオススメです笑

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