平沢進「ロタティオン(Lotus-2)」歌詞全解釈(非馬骨の投稿)

補足:このポストは、平沢進の背景を殆ど知らないうちに書き綴ったものであり、現在の当方の解釈内容とはかなり異なるものであることをはじめに弁明しておきたい。しかしながら、ほとばしる思いのままに書きなぐったその勢いを自ら讃えたく、この内容はそのままにしておきたい。ロタティオンの完全解釈については、別途用意する予定である。

前置き:
機会があって久しぶりに平沢進の曲を聞き返していた。「ロタティオン」はもともと大好きだったが、歌詞をきちんと読んだことがなかったので、ふと思い立って読んでみた。
そもそも「ロタティオン」が「Lotus」の続編だと聞いていたから、てっきり「Lotution」だと思っていた。が、「Rotation」だと言うではないか。それならまったく意味が違う。
「ロタティオン」=「ローテーション」=「輪廻」だ。よく考えると、まんまだ。
彼はタイ王国が大好きで、タイといえば仏教大国だ。だからそのようなモチーフの歌であることは知っていた。前編「Lotus」は「蓮」の意、仏教では欠かせない象徴の花だ。汚泥から生まれ空に向かって美しい花が咲く蓮は、厭離穢土を目指した仏教とモチーフがぴったりと重なるからだ。また、仏教というのは主に「輪廻解脱」を目指す教義なので、この歌も死生を象徴したものだということは疑いない。
それにしても、彼の頭の中は一体どうなっているんだろう。自分で作曲して歌詞も書いて演奏して歌ってしまうなんて、ヒラサワはある意味でのリアルブッダなのかもしれない。

それでは、本題に入る。

「ロタティオン」平沢進

黄金の月草の露に幾万も昇り
唯一に来る夜の牢に打たれるキミの夢に咲く
瞬く間にも数千の朝よ訪れよ
パラレルに行く船団にキミの全ての日を乗せて
ランダムに行く雲のように生まれてたはずと
千年を知るキミの声が全ての月に木霊する

※咲け輪廻の OH
咲けロータスよ OH
響け千年の OH
響け毎秒に OH

遙かな過去遙かな今日明日さえもここに
黄金の日は一度に有る忘れたキミが目覚めれば

パラレルに行く星の今を隠喩のように映す
ランダムに咲く花の野辺に全てのキミは記されて

※以下繰り返し

以下解説:
完璧なまでの漢詩的対比と相似の連続である。加えて想像される情景を映像化したときの視点の動き、更に五感の描写。ここまで来ると恐ろしささえ感じる。

それではまず、表現技法の点から順に見ていこう。

<黄金の月草の露に幾万も昇り>
黄金↔露:金色と銀色の対比
月↔草:空にあるものと地にあるものの対比
月≒露:形状が球体である相似

情景:黄金の月が地上から夜の空に昇っていく。昇るにつれ、露に月の光が反射し、露が地上の月の光のようにきらめいている。

<唯一に来る夜の牢に打たれるキミの夢に咲く>
<瞬く間にも数千の朝よ訪れよ>
幾万↔唯一↔数千:万と一と千の対比
夜↔朝:時間的対比

来る・打たれる・咲く:すべて「u」で押韻
間にも・朝よ・訪れよ:すべて「o」で押韻

情景:夜、「キミ」は何らかの苦しい思いをしながらも夢を見ている。が、そこに朝が華々しく訪れる。ただしここは「訪れよ」と命令形なので、「キミ」が夢の中で想う望みかもしれない。

<パラレルに行く船団にキミの全ての日を乗せて>
<ランダムに行く雲のように生まれてたはずと>
パラレル↔ランダム:並行と無作為の対比
船団↔雲:海を行くものと空を行くものの対比
朝→日:時間的経過
船は「乗る」もの、雲は「生まれる」もの

「キミ」は朝を迎え、船団に自らの時間を乗せられるものの、自分は「雲のように生まれてたはず」だと主張する。

<千年を知るキミの声が全ての月に木霊する>
全ての日↔全ての月:言語的対比。
瞬く間↔千年:時間的対比
木(霊)≒草(の露):植物の相似

「キミ」は牢から解き放たれ、初めて行動する(それまで「キミ」は何もしていない。前々項、前項で「キミ」は「訪れよ」「生まれてた【はず】」と思考はしていた)。船団に乗った「キミ」は声を上げて、それが「全ての月」(空にある一つの月、地上の幾万の草の露の月、どちらにも)に「木霊」する。つまり、「響く」のだ。夜の牢で打たれ、苦しみ喘いでいた「キミ」はその実、自らの中にある確かな「千年」を知っていたからだ。

<咲け輪廻の OH>
<咲けロータスよ OH>
<響け千年の OH>
<響け毎秒に OH>
輪廻↔ロータス:仏教的に輪廻と蓮(解脱の象徴)は対比。
千年↔毎秒:時間的対比。

忌まわしき輪廻から我々を解き放つLotus(蓮)よ、今こそ満願成就して「咲け」と、それまで決して発せられることのなかった「キミ」の声が響く。千年もの長きにわたり何度も何度も、最も短い間隔でその声よ「響け」と「キミ」は声を上げ続けるのだ。

<遙かな過去遙かな今日明日さえもここに>
<黄金の日は一度に有る忘れたキミが目覚めれば>
過去↔今日↔明日:時間的対比。
黄金の月↔黄金の日:「月」と「日(太陽)」の対比。
唯一に来る≒一度に有る:言語的相似。
夢↔目覚める:言語的対比。

「キミ」は今「全ての日」を手に入れた。
「遙かな過去遙かな今日明日さえもここに」=「黄金の日は一度に有る」である。「忘れた【キミ】」は今、まさに目覚めた。目覚めることさえできれば、「キミ」は「夜の牢」から解放されるのだ。

<パラレルに行く星の今を隠喩のように映す>
<ランダムに咲く花の野辺に全てのキミは記されて>
月↔星:カテゴリ的対比。
草↔花:カテゴリ的対比。
今日≒今:言語的類似。
映す≒記されて:「記録」という意味上の相似。

また夜が来た。そこに「キミ」はもういない。「星の今」が「隠喩のように映」されているのは地上の「花の野辺」だ。月は沈み、空は星が輝き、地上の草には花が咲いた。時間的経過がある。月が沈んだことで星は今輝くことができ、地上には星と同じように幾万もの花が咲いたのである。
しかし、花の野辺に「全てのキミ」は記されている。時間的経過=花の開花=「月が昇ったとき、囚われていた【キミ】がここにいた事実」なのだ。
そして、星はパラレルに夜の空を巡る。北極星を中心にして。
しかし花はランダムに咲く。その咲き方に法則はない。
法則から解き放たれた「キミ」はつまり、「花」だったのだ。

さて、ここから本格的な解釈に入ろう。

「キミ」は「夜の牢」で夢を見ている。夜は生きとし生けるものが眠る時間で、「キミ」はそこに囚われているのだ。しかも、「打たれる」という苦行を強いられている。夢を見るとは何か。「dream」は眠りの中で見る記憶でもあり、昼の世界でも未来へ向かうとき思い描く心の地図でもある。

しかし、夜は明けず、夢は覚めない。つまり、「キミ」は苦行を強いられ続けていることになる。月は昇り、幾万もの露も月に倣う。いったい、自分に朝が来るのはいつになるのか。

============とりあえずここまで加筆修正16.2.22

「目覚める」とはどういうことか。
「ブッダ」というのはヒンディー語で「目覚めた人」を指す。
「千年」とは、単純な概数でもあるのだが仏教においては「正法(ブッダの入滅後、伝えた教えが正しく行われること)」の世の期間を指す。

更に言うと、「花」は「キミ」の遺した「成就」のモチーフだろう。したがって、「ロタティオン」はまさしく、ブッダの入滅を表した歌と考えられる。

あとがき:興奮して書いたのでいろいろと洩れがある恐れがあります。適宜加筆訂正予定。

追記メモ:「乗る」のは「教えに乗る」ということ。「一乗」。
「船団」=「多くの船」=小乗仏教↔大乗仏教「大きな一つの船」
ブッダは小乗仏教を否定し、自ら大乗仏教を興した。
「響く」=仏の教えはしばしば「声」で表される。衆生の苦しみの声を聴くことのできる仏のことを「声聞」と言うことも参考に。
「雲」=阿弥陀来迎の際に伴う雲は「彩雲」と言われる。
「草の露」=平安文学では人の死のことを「草の露」「野辺の露」と婉曲表現する。
「唯一」=「唯我独尊」
「遥かな過去遥かな今日明日さえもここに」=過去仏と現世仏(=ブッダ)と未来仏
「星の今を隠喩のように映す」=ブッダが入滅した後、迷える衆生(=星)はブッダの声(=響き)を得てランダムに咲く(=輪廻解脱の方法を得る)地上の花となる。
月と夢はセットとして「現世(とそこに満ちる既出の教義)」のモチーフ。あやふやなもの、満ち欠けして安定しない、頼りないもの、儚いもの、虚。しかし強大な月によって夜(=現世)支配されていた。
キミ=大和古語では貴人を指して「君」と称する。

追記2:解釈のまとめに時間がかかっております。もうしばらくお待ちください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?