ピピピピピ…遠くから、鳥の鳴き声のような音がする。薄暗い部屋の中で、私はゆっくりと目を覚まし、そして理解した。鳥ではなくて、いつもと同じ、ケータイのアラームだ。ゴソゴソと、右腕だけを布団の外へ出すと、音のする方へ手を伸ばした。液晶画面に表示されている時間は、午前5時。その画面のまぶしさに、思わず顔をしかめると、枕へ顔を突っ伏した。そのまま大きく息を吸う。シャンプーの、甘い香りが体全体に行き渡る。たしか、桃とあんずの香り、だったっけ…。
違う違う、今日は起きなくっちゃ。
危うく二度寝してしまう前に、身体を起こしベッドから抜け出した。壁にかけた制服を手に取り、順番に身にまとう。鏡の前でくるりと一回転し、最後にゆっくりと、胸元のリボンを締めた。
いつもと同じ部屋、同じ動作。違うのは、時計が示す時間だけ。
なるべく音をたてないように、真っ暗なリビングへそろりと足を踏み入れる。我が家でいちばん早起きの母も今日はまだ寝ているようだ。しんと静まり返った部屋の空気を、私はゆっくりと吸い込んだ。
洗面所で顔を洗っていると、誰かが階段をおりてくる音がした。
「おはよう。ほんとに起きたのね。」
小さくあくびをしながら、母が言った。
「昨日言ったじゃん、今日は早く行くって。」
「そうだけど…いつもより1時間も早いじゃない。」
いつもこうならいいのにね、といたずらっぽく付け加えて母は台所に向かった。
私は後ろで髪をひとつくくりにする。よし、いつもと同じ。完璧。
「朝ごはんは?食べないの?」
「うん、コンビニで適当に買ってく。」
玄関で靴を履きながら、母に返事をする。財布とケータイ以外は筆記用具ぐらいしか入っていないかばんを肩にかけると、私は家を出た。
「いってらっしゃい、気を付けてね。またあとでね。」
学校までの道のりを、少しだけゆっくり歩いた。時間が早いせいか、いつもの道なのに違って見えた。車や人通りが少なくて、町全体がまだ眠っているようにひっそりしている。鼻から吸う空気が冷たくて、でもなんだか気持ちいい。ランニングや犬の散歩をしている人とすれ違う。初めて見る人ばかりだ。私の知らない世界がそこにはあった。
学校に着くと、先生たちが慌ただしく動いていた。今日の準備をしているのだとすぐに分かった。それだけで、本当に今日が卒業式なのだと実感する。花のたくさん飾られた玄関の横を通り、靴を履き替えて校舎へ入る。外の様子とは反対に、校舎の中はとても静かだった。
自分の足音が廊下にこだまする。いつもと同じだけど違う、そんな不思議な感覚を噛み締めつつ、2階にあるHR教室へ向かう。教室の扉は半分ほど開いていた。鼻歌まじりに、体を滑り込ませる。
「あっ。」
思わず声が漏れた。誰もいないと思っていた教室に先客がいたのだ。彼女は窓際の手すりに肘をつき、外を眺めていた。私の声が聞こえたのか、ゆっくりと振り返る。逆光のせいか、一瞬誰かわからなかった。
「小﨑さん…?」
そこにいたのは、クラスメイトの小﨑さんだった。
小﨑さんと私は、クラスメイトではあるものの、話したことはほとんどない。仲が悪いということではなく、普段一緒に居るグループがそれぞれ違うから、あまり接点がないのだ。教室の入り口で鉢合わせて、「あ、ごめん。」とかそんな会話ぐらいしかしたことがないと思う。選択科目が一緒だったかもしれないけれど、違ったような気もする。
「おはよう。誰もいない教室って、なんかいいよね。」
ぎこちない動きで自分の席に着いた私に、小﨑さんが声をかけてきた。落ち着いたよくとおる声。自分に向けられた小﨑さんの声を初めて聴いた。
「あ、うん。静かっていうか、いつもと違うから不思議な感じだね。」
私が思ったことを素直に言葉にすると、小﨑さんはふっと笑った。
「いつもこの時間に来てるの?」
身体をこちらに向けて小﨑さんが口を開く。肩より伸びた髪と、いつもより長いスカートがふわりとなびいた。
「いや、えっと…いつもはもっと遅いよ。でも、今日で最後だから、ちょっとでも長く教室いたいなって。小﨑さんこそ早いけど、家、この近くなの?」
「ううん。どうだろ…バスで1時間ぐらい、かな。」
「い、1時間?!」
私は歩いて15分ぐらいのところに住んでいる。小﨑さんもそれぐらいなのかと思っていたから、意外な答えに驚いた。違う中学校の子だなとは思っていたけど、そんなに遠くから毎日通っていたなんて、知らなかった。小﨑さんは苦笑いしながら続ける。
「うん。だから始発のバス、ぎりぎりだった。」
先ほど彼女の顔を見た時に抱いた違和感の正体に気づいた。アイメイクがいつもより薄いのだ。でも、バスに乗り遅れそうになったからメイクできなかったの?とは聞けなかったので何も言わなかった。
「ね。中川さんは何でここに入学しようと思ったの?」
卒業式という特別な日だからなのか、ふたりだけだからなのか、今日の小﨑さんは饒舌だ。不思議な空気にあてられて、私もつい話してしまう。
「私は…家が近かったから、かな。小﨑さんは?通学大変なのに。」
率直に疑問をぶつける。彼女は少し考えるようなしぐさをしたあと、確かめるようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「私はその逆。家から遠かったから、ここにしたの。新しい場所で知らない人と会って友達になって、高校生活を送ってみたいなって思ったから。」
初めは緊張したけどね、と小﨑さんは言う。その頃を思い出しているかのように、教室の入り口を見つめている。教室にはじめて足を踏み入れた時、小﨑さんはどんな気持ちだったのだろう。明るくてよく話す彼女の周りには常に人がいた印象だけれど、初めからそうだったわけではないのかもしれない。
「楽しかったね、3年間。」
気づいた時には言葉が出ていた。言ってから、おかしなことを言ったと思った。小﨑さんとはただのクラスメイトだった。級友として同じ時間は過ごしていたかもしれないが、一緒の時間は過ごしていないのに。たとえば家から学校までの風景とか、文化祭や修学旅行のこととか、先生と話した内容とか、テストのあとで食べたお昼ごはんの味とか、誰と一緒に帰ったとかその時寄り道したお店とか、たぶんどの思い出も、私と小﨑さんの中では違う。私には私の、そして小﨑さんには小﨑さんの思い出が、この学校にはある。
小﨑さんは私の言葉に変な顔をすることもなく、小さく頷いた。そうして細く目を閉じると、息を薄く吐いた。
閉じられた瞳の奥に、何が映し出されているのかわからない。でもきっと、それらを深く味わうために、小﨑さんはこんな時間に教室にいるのだと思った。そう、私と同じように。
窓から差し込む朝日に、宙を舞うほこりがきらきらと照らし出されている。小さくて、少し目を離せば見失ってしまいそうで儚いもの。それでも無数のきらめきがそこにはあった。
「不思議だね。昨日が今日になるだけなのにね。」
ふいに、小﨑さんがつぶやいた。
え、という私の声は、教室の扉が開く音でかき消された。そちらを見ると、小﨑さんがいつも一緒に居る女の子が立っていた。
「あれ?ユキ…と、中川さんも来てたんだ。おはよう、ふたりとも早いね。」
他にも足音がすると思ったら、数名のクラスメイトが続けて教室に入ってくる。おそらくバス通学の生徒が到着したのだろう。小﨑さんと話すタイミングをすっかり失ってしまった私は、彼女の言葉を聞き返すことも、詳しくたずねることもできなかった。
昨日が今日になるだけなのにね。頭の中に彼女の言葉が響く。
小﨑さんがどんな思いでそう言ったのか、確かめるすべはないけれど、言いたい事はわかるような気がした。
クラスメイトが集まってきた教室を、私は見渡す。私と小﨑さんだけじゃない、ここにいる全員にそれぞれが歩んできた道があるんだと思う。交わったりまた離れたりすることもあるのかもしれないし、この3年間見てきた景色はみんなバラバラだと思うけれど。
昨日が今日になり、今日が終われば明日がやってくる。そんな毎日の繰り返しを私たちは過ごしている。
今日はそれを確かめる日なのだ、きっと。これまで自分が歩いてきた道を振り返り、これから進む方向を決めるための1日。いつもどおりだけど特別な1日。
「みんなおはよう。全員揃ってるか?最後の出席とるぞー。」
教室のドアがガラッと開き、スーツに身を包んだ担任が教室へ入ってきた。席を立っていた生徒が、自分の席へ戻っていく。小﨑さんも前を向いて座っていた。
先生が出席をとり、名前を呼ばれた生徒が返事をする。いつもと変わらない今日が、始まろうとしていた。
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