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今を精一杯生きる自分に満足しながら、ごはんを食べて、眠りにつく。


 あれは、まだガラケーを使っていた頃であるから、私が大学の2回生ぐらいの頃の話である。

 当時、私の周りで最も勢いのあったSNSと言えば、mixi(ミクシィ)であった。ユーザーは自分のアカウントと個人ページを持ち、「今起きた。」といった他愛もないつぶやきから、「就活備忘録」のような少し量のある文章を投稿することもできる。お手軽な個人ブログのようなものである。Twitterほど全世界と繋がってはいないが、「○○好きな人集まれ」などといったコミュニティが無数にあり、そこへ参加すれば不特定多数の人とやりとりすることができるし、mixi内のゲームサイトのようなものも豊富に用意されていて、朝から晩まで時間をつぶすことができた。

 「mixiやってる?」初対面の相手には必ずと言っていいほど聞いたし、実際、知り合いのほとんどがアカウントを持っていた。それぐらい、生活の一部になっている感覚があった。遠くにいる友達ともコレで繋がっていると思うと、奇妙な連帯感を覚えた。

 大学の2回生と言えば、学生生活にも慣れ、取り立てるほどの心配事もない時期であった。

 そして、可もなく不可もなくといった毎日を繰り返しつつも、自分なりの理想や価値観が、少しずつ形成されていく時期でもあった。

 mixiの使い方は個人によって様々で、他人に見られることを理解しきっている文章を書く人、一挙手一投足を律儀につぶやく人、日記帳の中身を垂れ流しているような人、ログインしなさすぎて天然記念物と化している人、いろんな人がいた。

 それぞれの個性を面白がりながら、フレンド(フォロワー)の投稿を眺め、たまにコメントでやりとりをするーーーそんな毎日を送っていたある日のことだ。高校時代の後輩のつぶやきに私は目を留めた。

 つぶやきにしては分量が多めで、絵文字の一切ない、グチだった。彼女の親のことを指しているのだとすぐに分かった。

 コメント欄には、彼女を心配し、慰める声があふれていたように思う。

 そんな中、私はただひとり、その投稿に対して「自分の親のことを悪く言うもんじゃないよ。」というようなコメントをした。

 ほどなくして、彼女から「すみません。でも、いろいろ事情があるんです。」とコメントが返ってきた。私はそれに対してなんの反応もしなかったけれど、後日、過去のつぶやきを遡っていると、その投稿自体が削除されていることに気がついた。

 ちょうど、共通の友人と会うことがあったので、その件について「この間のことなんだけど、どう思う?」と聞いてみたら、友人からは「まぁあの子の家も、複雑だからね…」という煮えきらない答えが返ってきた。「親に対して腹が立つこともあるのは分かるけど、多くの人の目に触れる場所で発言するのはどうかと思う」というようなことを私は言った気がする。友人は困ったように笑っていた。

 私は両親と良好な関係を築けていて、親というのは往々にして尊敬や信頼の念を向ける対象であると思っていたから、その言動を良しとすることができなかったのだ。mixiという、個人の裁量に任せて自由に展開されるべき世界にすら、自分のポリシーを当てはめていた。そして、自分は何でもできるという勘違いと、ちっぽけな全能感、正しいことを言っているという自己陶酔と、ひとりよがりな正義感。そういうものが混ざり合ってできていた当時の私は、後輩のその子にそんな言葉を放り投げたのだった。

 幸いにも、それが何らかのトラブルに発展するようなことはなく、私も少し反省はしたものの、特に気にも留めなかった。いつもと変わらない時間が流れていき、いつしか私は社会人になった。

 

 当時の私と比べると、今の私は少し変わったと思う。ただ、あの出来事だけがきっかけではない。年齢を重ね、新しい人と出会い、卒論や就活といった、一般的な“壁”に直面するなかで、自分を見つめ直す時間が多くなった結果である。

 私という人間は確実に変化した。具体的には、こうあるべきという価値観の押し付けをしなくなった。そもそも、そういった価値観そのものを手放すようになった。

 たとえば、他人からの言動に傷つきそうになった時。言われた事やされた事に対して、怒りや悲しみの感情を抱くのではなく、「何故この人はこんな事を言うのだろう。」と、意図や理由を考えるようになった。背景に思いを馳せ、きっと何か事情があるのだろうと相手を優しい気持ちで見られるようになった。「そのやり方は改めるべきだ」ではなく、「そういう方法もあるね」と、何もかもを肯定するような感覚である。

 そうすることで、他人と衝突することや、自分が誰かを不快にさせているのではないかと不必要に怯えることはなくなった。そういう生き方は楽だし、自分の性分に適している、と思っている。

 一方で、「こうあるべき」という指標をなくすことにはデメリットもある、ということには、最近気づきつつある。「まぁそういう方法もあるよね」だと話が進まないし、自分はどうしたいのかという軸がないので、何をしても薄っぺらい結果しか残せないのだ。つくづくテキトーな人間になってしまったなと思うことが増えた。

 「価値観を押し付けない」ということに固執するあまり、元々少なかった口数はさらに激減した。相手には相手の、私とは異なる価値観が当然あるはずだ。私だけの価値観で、一体私は相手の何を判断できるというのか?ことあるごとにそんな思いが頭をよぎり、言葉をつぐんでしまうようになった。(単に、他人とコミュニケーションをとる煩わしさを誤魔化しているだけなのかもしれないが。) 

 ここへ来て、学生時代の自分とは逆方向に偏ってしまったことに気づく。こだわりすぎることを辞めて、こだわらなさすぎてしまったのである。大学生の頃とは異なる生きにくさを、日々感じている。

 そういう意味では、今もまだ失敗している最中なのかもしれない。あの頃の私からは変わったし、好きだと思える側面も増えたが、同時に、軌道修正をかけるべき部分も目につくようになった。

 ただ、それですらも、「それもアリかなぁ」と思ってしまうのが私である。特定の価値観を押し付けないという私のポリシーに従えば、

 「すぐに出来なければいけない」ことはないのだ。

 「うまく出来なければいけない」こともないのだ。

 テキトー人間は、他人にも自分にも甘いのである。

 思い返せば、mixiでの一件が、私の中の何かを大きく変えたということはない。だが、あの出来事が今の私を構成する一部であるということは断言できる。その証拠に、失敗や後悔というキーワードで記憶を探ってみると、ぼんやりと、だが確かな色をもって浮かび上がってくる。それぐらいには、私の心に引っかかる出来事だったのだ、きっと。

 当たり前だが、あの頃の私をこんな風に思い出し、その思い出にこうして意味を見出すことは、今の私にしかできない。あの頃の私は、その時を生きることに一生懸命だったからだ。同じように、今の私へ何か思いを巡らせることになるのは、今この瞬間の私ではなく、今の延長線上にいる私、なのだろう。

 未来の私は、今の私を思い返して何と言うだろう。そして彼女は、どんな形や色をしているのだろう。そんなことを考えながら、私は今日も、今を精一杯生きる自分に満足しながら、ごはんを食べて、眠りにつく。

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