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動物は子別れ人間は物別れ

子供たちに惜しみない愛情を注いでいた親狐が、まるで縄張りを荒らす敵に攻撃するかのように、手塩にかけた子供たちを巣から容赦なく追い出すのを見たのは、確か「キタキツネ物語」だったように思う。(映画館で見ましたし、サントラも買いました)

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ノンフィクションと言うことで、その物語は野生の動物たちの置かれた現実…自然の厳しさと無情さというものを、強烈なインパクトとともに教えてくれた。そういう映画でした。

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その道の先輩で、著名な占星術師でオカルティストの某氏は、研究会のようなものを立ち上げては突然に終了させ、また別の場所で似たようなことを始めてはまた壊し、その都度メンバーは入れ代わり立ち代わりと言うか…残る人もいるし、卒業していく人もいる。

私自身はご当人とお会いしたことはないのだけれど、友人知人が関わっていたり参加者の中にいたので、噂とか周辺の事を聞いたことがあるという程度。そんなんでご当人の考えや詳細は知らないのですが、なんか解るような気がする…という話。

理想としては、師匠と弟子、先生と生徒みたいな…教える立場と教えを乞う立場であるときに、一生その善き関係が持続出来れば良いのだけど。それぞれが対等な立場での集まりとは異なり、カリスマ的な存在に対して、憧憬や崇拝的な気持を抱いているファン心理の人や、依存傾向の強い人が一定数混じっての集まりだと、なんていうか妙な雰囲気が生まれてしまったり、変な方向に流れてしまうことはよくあることだから。

何て言うのかしら。時間が経てば経つほど水は淀んでしまうと言うか…腐敗したものが涌きやすいというところかも。(マンネリ化とは違うもののよう)

なので、何処かで時期を見てリセットせざるを得ないと言いますかね。
「はい、ここで終わり!」と、した方がいい場合もあったりする。

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そりゃ お商売として考えたとき、長く通い続けて頂いた方が良いのですが、生徒(教え子)を一人前にするという観点からは、ある程度の知識を習得してもらったならば、独り立ちして巣立っていって頂く…と言うのが望ましいことなんですよね。

「いつまでも頼っていないで、あとは自分で頑張んなさい
 それだけのことは教えました」
と、自立を促すのも師たる先生の仕事。

まるで子供を群れや巣から追い出す、野生の動物たちのように…

切りたい縁などそうそう無いけど、切らなくてはならない縁はそれなりにあります。とかく、このような仕事においては。

いつまでもこちらに、寄り掛からせておくわけにはいかないし、返る場所、頼る人がいる環境が、本人にとってになる場合もある。

一定の時期が来て、学ぶ姿勢に難ありだったり、依存的な関係になりそうだと感じたり、信頼関係が築けていなかったり、あらゆる面で望ましくない影響下にあると判断したなら…手を放して、突き放すべき時もある。

まあそれ以前に…「期待外れだった」「ちょっと違う」
「こんな人から教えを乞うのはゴメンた!(教わりたい人間じゃない)」
と、学ぶ側がそうした判断で立ち去ることもあるでしょう。

でも、それはそれで必然なんです。

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そう言う人は「教わりたい誰か」のところに辿り着く旅が必要なんですから。色々と巡り巡る必要があるわけです。

反発も反抗も大いに結構。子供にも反抗期があります。そして疑問を持たなければ人は成長しません。

与えられた情報を鵜呑みにする人は、それ以上は伸びないんです。自分で考えて感じて行動して、始めて知識というのは身に付くし、智慧になっていきます。経験をして納得したところでようやっと人生の糧になって、その人の実になるんです。

何事も経験しないといけません。

そして、自分で経験するまでは、どんなことも信じてはいけません

誰々がそう言っていたから… 先生にそう教えられたから…

人の言葉を借りて、それを自分のものとしている内は、そんな知識は何の役にも立ちません。学んだことにもなりません。それでは言葉を繰り返すオウムと一緒です。

疑うことは大事です。猜疑心は捨ててはいけません。

「私を信じるな、私の言うことを信じるな
 私が教える知識は信じても
 私という人間をその知識とイコールと思うな
 私の人間性と教えている内容は別物で、
 絶対に一緒のものと考えてはいけない
 だが・・・
 私の事を信頼することができないのであれば
 あなたは何も学ぶことができないだろう」

教えの始めにお伝えしていることです。

この矛盾の気付くことが出来る人で無いと、教えられた知識を本当に理解し、その知恵を使っていくことは出来ないのです。

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グループレッスンは集団での学びで、エソテリックな知識や、サイキカルなテクニックを学ぶところではありましたが…人との関わり合いを通じて協調性や社会性、人間関係を一番に学ぶところ。慈悲と慈愛の精神、助け合いと奉仕の精神、仲間意識を超えた共同体意識を育む場所。

なぜならスピリチュアリティの基本は人間力で、スピリチュアルな能力を伸ばしたいなら、そしてそのような本当の叡智を身に着けたいならば…
人としてのエゴイズムを捨てるための「お試し」洗礼のような最初の振り分けを、通過儀礼として通り抜けないといけないから。

それが白いロープを身に纏う資格

そこに至るまでに、自らのエゴイズムと直面させられて、自滅していく人は数あれど、謙虚に向き合える人は極僅か。

その過程で起こってしまう決別は…
「巣立ち」という自立であるのか
「絶縁」という物別れであるのか

さて、どちらなんでしょうね。

そうですね…生徒さんにしてもクライアントさんにしても、精神的にも人間的にも健康になって、通院やケアサポートが不必要な状態になるのが望ましいわけですから、いつまでも通っている状況は望ましくありません。

問題が解決したり状況が改善されて、自分で自分のことを解決できるところまで、自分の力を取り戻したならば…後は何かあったときにという程度で、
「便りがないのは元気な証拠」という距離がベストだったりします。

健康的な利用の仕方が出来る人や、依存ではない学び方やメンテナンスであれば、ビジネスとしては拒む理由なく大歓迎ですけど。そうではなく不健康な距離を維持しようとする人には、自立を促すためにも、突き放すことはよくあります(私の場合は)。

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こちらもまた、過去blogに書いたものからの転載で、数年前の記事

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