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スピリチュアル・ナルシズムとエゴイズム③

世の中のあらゆる占いは、それぞれ一面の真実を語っている

一方、どんなに悪い卦が出ていようとも
私たちが今しっかりとした理想を持ち、その道を歩む決心をしたならば、
その意志に易断が勝るということはない

多くの占いは
物質的な利益、社会における名声や家庭の安定を占っていて
苦難の中で自分を磨き、忍耐によって魂を向上させるという魂の願いや
主のご意志に自分の意志を一致させることによって達成される
地上での貴重な体験についての構成要素に欠けているからである

             by エドガー・ケイシー

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どう目減りしてみても、上から目線な言い草なのだけれども・・・

占いの仕事をしていたときから、こうした仕事の何がイヤかって、度々うんざりを通り越して、何度も「辞めさせてくれ」って言うような気分に追い詰められるのは、人間の醜いところをたくさん嫌というほど見させられ、欲望の深さ、果てしなさ、自分本意な身勝手さを思い知らされ、辟易すると同時に胸糞悪い気分に襲われることが多いからだ。

やればやるほどに人間嫌いに拍車がかかっていく。

そういう人々の醜悪な欲望や自己中な感情は、本来のその人自身ではなく、
人々に取り憑いた『何か』として考え、当人と区別して考える視点がなければ、とてもやってられないし、生理的な嫌悪感も吐き気もおさまらない。
(実際、その人自身ではないっちゃあ、ないのだけれども)

そういう自分も、その醜いところをたくさん持っているし、過去において、毒も大量に撒き散らしてきた。今は眠っているけれど、モンスターも生み出し、未だ内部に飼っているといえばそうで。自分もその一人だから理解できるけれども、理解できるからこそ、耐えられないという部分もあったりする。

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さて、かって知ったることではあるものの、未だ多くの人が・・・ほとんどの人が自らの欲望を叶え、欲求を満たすことばかりに夢中になっている。

何万年、何千年の気の遠くなるような年月にて進化の道を歩み、たくさんの文明を創り出しても、愚かな歴史を繰り返しては、そこから学ぶ気配もなく、似たようなドラマを繰り返し演じている。いかな科学的技術を発達させようとも、あいも変わらず、人間というのは変わりがない。

いつの時代もそうであったように・・・

場所やら背景やら服飾やら、相手や舞台が違うだけで、いつだって、自分が満たされることばかり考えている。自分という小さな世界だけがすべてで、世界の中心で。


他人を自分の思い通りにコントロールしようとし、
望むものばかりを手に入れようとし、
すべてが自分の都合通りに動くよう、
そのことだけを考えていたりする。
恋愛や結婚生活の場においても、
相手を奴隷化して、自分のために利用することばかり考えていて、
それが恋とか愛とか、偉大なる勘違いをしていたり。


傲慢に取り付かれてた頃の私は、人間の醜い感情にうんざりして、
『バビロンが滅ぼされたように、
 こんな自分勝手な人間ばかりの世の中なら、
 やっぱり一度滅びちゃったらいいんじゃないんだろうか』

なんて中二病みたいなことを考えたこともあったかな。

そこもそれ、自分のことは棚上げで。そういう、他人を下に見て、裁定する気持ちがある時点で、エゴイズムの虜になっている傲慢という名の。

 人の醜さに嫌悪感を抱き、眼をそむけ
 人が人でいるが故の愚かさをあざ笑う前に
 鏡に映った自分の姿を見るがいい
 お前があざ笑い、罵る姿は、誰でもないお前の姿だ
 彼らの醜悪さはお前のもの
 まぎれもなくお前の中にいる悪の華
 お前が嫌うのは彼らが自分の醜さを教えているからだ

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スピリチュアルな道を学ぼうというものは、
ましてサイキカルな能力を磨き、それを使っていこうというものは・・・

まず道のはじめとして、自らのエゴイズムと向き合い、それらを手放していくことから始めなければならない。エゴイズムを残し、抱えたままで、この途を行くのは危険だし、自らのエゴイズムを自覚しないまま、学びの道を進むべきではない。

とはいうものの、エゴイズムを自覚しないまま、持ったまま、それらと対峙することなしに、スピリチュアルな道を選択し、サイキックな能力を磨こうとする人は後を絶たない。

結局そういう人は、必ずといっていいほど、エゴイズムに掠め取られて、最終的には呑まれてしまうのだけれども。エゴイズムからサイキックな能力を利用しようとトレーニングをしたり、スピリチュアルな知識を学ぼうとする人も残念なことに多い。エゴイズムからヒーリングをし、ヒーラーになろうとする人も。

例えば、
以前にこのブログで取り上げたことのある心理療法家のケースもそう。彼は、心理学と同時に魔術やオカルトの研究にものめり込んでいたけれど、その道を志したのは、『人の心を操れるようになりたい』からだった。

エゴイズムを持っている人がサイキック能力を鍛錬して、スピリチュアルな道も利用しようとして周囲を巻き込んでしまったケースでは、誰もが知っているオウム真理教の犯罪なんかがもっともな例だと思う。

オウムみたいに最悪のケースでなくても、それが善意であり好意と信じて、
自らのエゴイズムを満たそうとする
人は少なくない。そういう人は、それが純粋な親切であり、相手のためであると、心から思っていたりするから困りもの。つまりは、自分が『良いこと』をしていると信じ込んでいるので。

『あなたのためだから・・・』的、ありがちな押し付けをする人は、ホント(ため息)自分のことを分かっていない人の代表格。

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私はハンド・ヒーリングのひとつである、レイキのティーチャーでもあるのですけれど、レイキを習いに来る人の中にも、時にそういう考えの人はいるわけです。何故そう考えを持っているのか解るかっていうと、レイキのセカンドレベルで願望成就法っていうのがあるのですね。

レイキって基本、マグネティックなハンド・ヒーリングなのですが、自分および他人に対してハンド・ヒーリングという施療(民間療法としての)をするばかりではなく、想念の力を用いて、過去の傷を癒したり、未来を創造していく・・・みたいなそのような使い方の手ほどきもあるわけです。

で、その話、使い方の説明になったとき、(矛先が向くのは大体家族で
配偶者とか子供とか親ってケースが多い)周囲の人物を無意識的に自分にとって都合の良い状況へと『コントロール』しようとする願望を口にする人が多かったりします。

「毎朝起きてくれないから、これで起きれるようにしなくちゃ」
「○○学校に受かるようにさせないと」
「じゃあ、これをすれば、あの子は・・・」

みたいな。もちろん、そこでヲイヲィって突っ込みは入れます。

親心として、子供に対し、そういう期待や、希望があるのは仕方ないし、
思ったりするくらいなら問題ない。思ってしまうこと自体は罪じゃない。

けれど、問題なのは、もしかしたら干渉できるかも知れないスキルを得られたときに、それを押し付け的に実行しようとする行為。

(だから人は・・・人間という生き物は、大なり小なりそのようなエゴイズムがある以上、無から有を生み出す力を与えられていない。自分の感情と欲望を最優先して、それを満たすことだけを考えて、他人をそのためのコマとして利用していることになかなか気づこうとしないので)

いかな家族であっても、その人の人生はその人のもの。言葉で話し合って、親としての自分の願望や希望を伝えたとしても、目に見えないところから働きかけようとするなんて、卑怯だし、それじゃ黒魔術以外のナニモノでもない。

本人が望むことに対して、エールを送るならいいけどね。子供をコントロールしようなんて、身勝手もいいこと。子供は親の所有物ではないし、人形でもないし、親の自尊心や見得を満足させるための道具でも奴隷でもない。

それは子供だけでなく、配偶者に対しても同じこと。
家族だけじゃない、誰に対してもそうだ。

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そんな風に自分が抱えるエゴイズムをそれと気づいていず、他人や周囲の出来事をコントロールしたがっている人はたくさんいて、そうした本能的自己愛がまだまだ強い、精神レベルの人が、サイキックな能力を磨くことになると、諸刃の刃になる。

ちょっとしたヒーリングでも・・・レイキ程度でもこうなんです。ヒーリングのテクニックやスピリチュアルな知識を、自分の思う方向性にミラクルを起こす魔法と勘違いしちゃうんですね。

だから自分の欲望をコントロールすることを覚える前に、サイキックな能力を磨こうとするのは誤りで、正しい道の進み方ではないのです。

まずは正しい知識を持つことと、社会性と常識を身に着けることが大事。
それ以前に良心と理性良識と分別を持つことも肝心。

さて、ヒーリングでは、
相手の承諾・・・相手の望みなしに、
勝手にヒーリングをすることはやってはならないこと。

もちろん、例外もあります。

『病気だから治してあげたい、少しでも力になれれば』

という、一見ピュアな善意に見える気持ちでも、それは勝手な押し付けで親切の押し売りになることは多い。だって、その人が病気になったのは理由があるし、スピリチュアル的には意味のあることで、治るべき時期が来ていて、本人が治したいと切実に思わないことには、相手が誰であっても、干渉してはならないもの。よかれと思って勝手に手出しするなんてとんでもない!

ことなので・・・

この『よかれ』と思う親切心が曲者なんです。
だって、その物の見方は、
『病気は治すべきもの』という病気を悪に考える思想があってのこと。
『病気は退治すべきだ』『治るべきだ』っ考えてるから、
『病気になって可哀想』となって、
『治してあげる』という、押し付けがましい発想になるわけ。

この考えの裏には、そういう自己中な、
『私は他人に対して良いことをしたい』という偽善があるんです。

うん。この場合、相手のためになることをしようではなくて、自分が『いいこと』をしたという自己満足をね、満たすためのヒーリングをしたいわけです、こういう人は。

(中には、治せる人になりたい!
 ・・・というエゴイズムに引っかかってる人もいるし)

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けど、何がいいことか悪いことかって言うと…治るか治らないかは他人が決めていいことじゃない。そういうのは当人が決めること。自分にとっての良いこと、自分が安心できる結果を、他人の人生に押し付けたりしてはいけないんだ。

何故って、病気はその人に『何か』を教えているわけだし、それに気づかないうちにヒーリングで治そうとするのは、(医師の治療は別ですし、基本ヒーリングは医療行為ではないですが)その人の『気づき』の機会を奪うことになる。カルマの負債を支払うために、病気になっている人もいるんです。だから、安直に病気を改善したり、治すことが、当人にとっていいことだとは必ずしも限らない。なりたくてなっている病気もあるわけだし。病気は『悪』とは限らない。その人を、自分を守る手段としての病気もあるので。


それ以前に『治す』なんて傲慢なこと
病気を治すのはいつだって本人の力。
ヒーラーは、働きかけることができるだけ。

でも悲しいかな、勝手に自己満足のためにそれをしてしまう人はいる。自分が『何かできる人だ』ってことを証明したいがために…自己満足のためにだけにヒーリングを利用している人は多い。とても残念なことだけれども。

ものすごく素質があって、素養や才能に恵まれている人でも、道を見誤っちゃったり、エゴイズムに飲まれてしまって、せっかくのスキルを腐らせてしまっている人もいて・・・

あーもったいないなあ・・・って、眺めるのみ。

とってもいいところにいってるのに、いってたのに、なんでそっちに惑わされちゃうかなーって、思うけど。

「おぉーい、帰ってこーいっっ!!」

って言いたい人は多く。。。。

けれども、いつかは、正しい道に戻ってきてくれるだろうから、それまではその日がくることを信じ、いつか気がついてくれることを信じて、周囲は忍耐を持って待つしかない。


こちら数年ほど前に書いた旧blogからの抜粋になります。そして「スピリチュアル・ナルシズムとエゴイズム④」に続く。

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