人間 / 霊・魂 ~ 本体と実体のハナシ
昨日の続きです。
昨日の用語として書いた「人間/霊・魂」という表現。これは私たちの本体と解釈してくれていいです。本来の私たちであり、ホームたる母体のようなとこ。それに対して実社会を生きている、肉体を持った存在としての私たちは実体。本体の投影(シャドウ)であり現身のようなもの。
このような説明は、エドガー・ケイシー的な物言いになりますが…
宇宙に一人(個別)の人間が誕生して「人間/霊・魂」となり、まずそれが本体として存在することになり、三次元と四次元と五次元の三つの世界に実体としての現身を持ち人生をスタートさせた時、それが一人の人間としての歴史の始まりです。
本体には私たちのすべてがあります。これまで生きてきたすべての記録。実体として生きたことのあるすべてのパーソナリティ。記憶であり性格を形作るものとしてのエレメンタル。これまでに創造してきたエレメンタルのすべてが…
さしずめ本体が実家だとすると、実体というのはそこから独り立ちして、アパートに一部の荷物だけ持って、一人暮らししているみたいな状態。スターシップ(母船)とそこに帰属する子船とも。
でも、独立してそこから生まれた存在というのも違う。親と子の関係というのにも置き換えるのも違うし、何より実体の方は本体という実家があることを知らない。そこから分離していて属しているということを忘れている。もちろん繋がっていて影響も受けていますが。
ようするに天涯孤独だと当人は思っているわけです。当人の知らないところで援助を受けていたり、影響や微細なコンタクトがあり、情報を受け取っていますけど。
決してネグレクトではないけど、放任主義であることは間違いないですかね(苦笑) 常に共にあって見守ってはいるけど、あくまで当人の好きにさせて自主性にまかせている…みたいな。
「人間/霊・魂」というとアレだから、魂とだけ短い言葉で言ってもいいかも知れません。その方が判りやすいですかね?
魂(本体)と実体は=ではなく、魂(本体)≠実体 魂(本体)∋実体
そして魂(本体)という存在が私たちが神たる所以。
ここがワンネスとしてすべてと繋がっているところ。
少し話が逸れますが、
私たちは全員、ある目的のために生きています。それは宇宙の意志であり創造的意識(絶対存在)の意志。私たちは宇宙の一部であり創造的意識の一部。
私たちすべての存在が宇宙を構成している存在で、創造的意識たる絶対存在の個別化された細胞(セル)のようなもの。
だから、全人類共通の目的と言えばそうだし、同時に個人の個別的な目的とも言えるし、連帯責任のようなものを担っているとも言うことが出来る。
一人の運命は全員の運命であり、一人の意志は全員の意志でもある。
マクロコスモとかミクロコスモとかワンネスとか、
その概念、言い方でいいと思いますが。
私はあなたであり、あなたは私
けれど同時に
私はあなたではなくあなたは私ではない
何故なら私たちは同じものの一部であっても、その一部は同じ場所に存在しているわけではないから (人体で言うと、同じ肉体に属してはいても、脳と爪は別もので役割も違うという話)
ややこしい話です。こうした観念を理解しろというのが土台無理な話で、理論的に考えようとするとこんがらがるから、イメージや感覚で理解した方が捉えやすいかも。
とはいうものの、理解できないことを無理に理解する必要はないと思うし、理解できない、意味を咀嚼出来ないということは、まだ知るべき時期に来ていないし、その段階ではない…ということでもありますので、そんな謎理論や哲学や教義…考えもあるんだくらいに「ifもしも」の仮説話として捉えてもらえればいいかなって思います。
で、話戻りまして…
魂(本体)というのは、この肉体の中には存在していません。
ハイアーセルフ(高次元の意識)とか、インナーセルフとか本当の自分とも言われる意識とか、そういう言葉で捉えられている意識が魂(本体)ですかね。
そして魂(本体)そのものが、個人のアカシックレコードとも言えるし、ブループリント(人生計画)を創り出す、カルマのレッスンの仕掛け人。
でも普段の私たちは、実体としての意識、エゴ(自我)を持って生きている。肉体(実体)だけが自分だと思っていて、魂(本体)が本物の自分であることを忘れているわけです。そして魂(本体)との繋がりも持とうとはしていない。
でもまぁ、それでいいんですけどね。
魂(本体)は永遠不滅のものだけど、肉体(実体)は不滅でも不死でもなく、せいぜい80~100年位の時間しか生きることが出来ない(現代では)。
私たちは永遠不滅の存在であると同時に、何度も死という変遷(変化)を経て輪廻転生を繰り返す。そのパーソナリティ、特定のキャラクターとしての自我を持った人生をリセットさせては新しい人生を生きる。たくさんの様々な人生を経験する。
そして昨日書いた記事でいうところの、一昨年が前々世で去年が前世で、今が今年、そして来年が来世として考えたとき、毎年私たちは去年の記憶を失くして、新しい年を何も覚えてない状態で始める。
そう…困ったことに覚えていないのです。
でも覚えていないというのは慈悲の行為でなせる業。生きていると忘れてしまいたいこともたくさん出てくるし、一からリセットされて事前情報がないままの状態で始めたり、やり直したりした方がいい関係も、これまたたくさんありますから。
でも、去年までしてきたこと積み重ねてきたことは、着実に符合として人生のあちらこちらに出ている。行くべき方向を示し、そちらへと誘導する「何か」の力とか「記憶の糸」って必ずありますから。
過去生の、去年の記憶はないけど、心が惹かれたり好奇心が刺激されたり、
感情が揺さぶられたり拒絶反応が出たり、才能や実技として自分が持っているものに気づいたり、間違った方向に行こうとすると道が閉ざされたり…
「過去」に自分が創ってきたものや歩いてきた道のり。撒いた種が成長していたりなどの結果と出逢ったり、覚えてはいなくても…記憶はなくても、私たちは自分たちが「過去」にしてきた行動や、考えたり思ったりしたことと絶対に対峙させられることになる。
そしてここでまた次回に続く…のでした。
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