寄り添う力

去年の年末あたりから時々考える。
寄り添うって何だろう。
相手に寄り添ってるつもりで自分中心に物事を考えてたり自分の身勝手な意見や気持ちを押し付けたり、寄り添ってるつもりの言葉で相手を傷つけたり。
寄り添うって難しい。

2歳の子どもが初めて胃腸炎になってしまった時の事。
元来テンパリストな私は平常通りアワアワした。
というのも私は、体力筋力は貧弱だし風邪はしょっちゅうひいて気管支系は弱かったが他は人並み以上に丈夫な子どもだったので、嘔吐や発熱や腹痛で悩まされた事がほとんどない。6歳辺りから成人するまでの14年間、記憶にある限り嘔吐は0回、腹痛は1回、発熱も小3くらいの時に扁桃腺が腫れたときの一度きり。一晩で下がった。
この病弱なんだか丈夫なんだかよく分からない特性のお陰で小中高皆勤賞だ。
だから嘔吐や発熱の世話をされた事が基本的に無い。風邪の時でも特にそれ用に食事が変わったことも無いから、成人後に「風邪の時はうどんでしょ」と言われてビックリした。子どもの頃は普通に揚げ物を食べさせられてた。
胃腸炎は未開の地。未知の領域だ。

さて。
ある日、子どもが朝から嘔吐を繰り返して微熱もあるので胃腸炎を疑って小児科を受診したら、いつもお世話になってる先生ではない先生がいて、「便秘」と言われ下剤でウンチを出されて帰された。いつも便秘がちではあるんだけど、この日は何だか様子が違った(オナカイタイ、と言って泣く)から「いつも便秘がちなんですけど、吐いたことはないんです。お腹が痛いとも言ってるので胃腸炎では」と言っても「便秘。溜まってるものが出たからもう大丈夫」と言い張られた。日頃から便秘の薬を飲ませた方がいいとも言われた。
帰宅後も何度も吐くし熱も上がってきたので、「これは本当に便秘ですか? 胃腸炎ではないんですか?」とアワアワするままに小児科に電話して尋ねた。
「胃腸炎かもしれませんね。薬が必要でしたらまた受診してください」と電話口でさっきの先生に言われたけれど、小児科まで徒歩5分の場所に住んでるわけでもなし。
大体我が家はエレベーター無しの三階の部屋で、ベビーカーと子供とお世話グッズを抱えて登り下りしなきゃいけないので、家から出るだけでいつもそれなりに苦労する。
そうでなくとも発熱してる子どもを連れ回すのは親子ともに大変なんだから、誤診はやめてよ…いつもと違うから胃腸炎じゃないかと確認したじゃない…と怒りも沸いてきた。
まだ診療時間中で電話してる余裕も無いのか先生から看護師さんに代わられた。
看護師さん「どうしましょう、またいらっしゃいますか?」
私「行けばお薬がいただけるんですよね? どんなお薬ですか?」
看護師さん「吐き気止めの薬です。とても弱いお薬だから気休め程度かもしれない」
私(え?)
私「なら行かなくてもいいんでしょうか…。お腹が痛いと言っていたんです。それは様子を見るしかありませんか?」
看護師さん「下痢はありますか?」
私「それはありません」
看護師さん「うん、じゃあもう少し家で様子を見ましょうか。今は吐いちゃってるのよね?」
私「はい」
看護師さん「うん、強い吐き気は大体半日から1日で治まりますからね。水分補給が大切です。スプーン1杯ずつくらいかな? こまめにあげてくださいね。お水やお茶よりは、塩分糖分が入ったイオン飲料が良いです。食事は柔らかめで消化に良いものを少なめに用意してあげてね。今朝から吐いちゃってるから…明日の朝になっても吐き気が取れないようならもう一度来てください」
勿論自分のための覚え書きという意味も込めて書いている。

穏やかで明るい口調で教えてもらい、不安も怒りも収まっていった。
看護師さんは凄い。

この丁寧なアドバイスのお陰で、その後私はテンパることなく冷静に子供の看護ができた。

一方で、子どもが胃腸炎になった事をメールのついでに義母に伝えたら仰天されてパニクられた。
「どういう事!? 食事がダメだったんじゃない!?」
それについては病院では言及されなかったし、大体幼児は街中のあちこちを触ってその手を口に入れる。気付いたら注意するけど全ての感染を防ぐことはできないのは母親なら誰もが知ってる事だ。感染源は食べ物とは限らない。
看護で疲れている母親に真っ先にかける言葉が責任追及か…と、良かれと思って義母に伝えた事で更に疲れてしまった。むしろパニックになった義母を落ち着かせるのに精神力を使ってしまった。そんな場合ではないのに。
私は子どもの食事の衛生面は義母よりは神経質だ。義母は保温を切って、暑い日の日中放置していた炊き込みご飯を平気で翌日子どもに食べさせる(諸用で子どもを預けた日、昨日の残りを食べさせておいたわよ!と自信たっぷりに事後報告された)。そしてその後見事に子どもは体調を崩した。以来義母を頼るのが怖い。
貴方に子どもの食事についてどうこう言われたくない、その言葉が頭に浮かぶ。

勿論義母に悪意は無いだろう。ただ他者への配慮や気遣いより先に自分の気持ちが暴発してしまう人なのだ。酷く迷惑だが加害意識は無い。
謝罪反省改善しないという意味で一番タチが悪いタイプなだけだ。

この瞬間、電話口の看護師さん(義母と同年代くらい)がいかに母親であり看護者でもある人間に対して適切な態度で的確なアドバイスをくれたかを理解したのだ。
寄り添うのは難しい。

この立場になってよく分かった事だが、子どもや子育てについて、親、特に母親はセンシティブになる。何故なら子どもについての全責任を負っている自覚があるから。母親が子どもの全責任を負っていると「世の中の皆々様から思われている」と考えているから。
被害妄想に陥りやすくなっていると言える。
でも実際、子どもに何かあった時、状況や事情を考慮せず簡単にその親(特に母親)を責める傾向は世の中にあると思う。
別に世の中の人を責めはしない。私も親の立場ならそれくらいの気持ちでちょうどいいと思ってる。
ただこれは、お客様は神様だ、は店員側の姿勢であって客の姿勢じゃないというのと似ていて、その親でも子でも無い人間が口にする言葉として「全部親が悪い」はちょっと違うかなと思う。
ちゃらんぽらんな親にはほぼ効かないし、普段から自分で自分を追い詰めてる真面目な親は更に追い詰められるんだろう。
そういう意味では無駄で、無い方が良いプレッシャーだ。啓蒙は専門家に任せてほしい。

子どもはお肌が敏感な体質で、乳児期にほっぺたが酷く荒れた時もあった。皮膚科に通った。「乾燥だよ。この子、とっても肌が敏感な体質なんだ」と保湿クリームを処方され、朝夕必死で塗った。
街で会う大体の人は「赤ちゃんは皆そうよ、すぐに綺麗になるからね」と言ってくれたけど、たった一人のご婦人が悪気なさげに子どもに囁いた「汚い手で触ったんじゃないの? お母さんやお父さんが。可哀想にねえ?」というお言葉が抜けないトゲのように刺さっている。
子どもの頰は保湿クリームで治った。

一部の変な母親以外のほとんどの母親は責任感を持って子育てしている。子どもに何かあれば、罪悪感や使命感、焦燥感、恐怖感、色んなものに取り憑かれて、それでも自分を奮い立たせて持てる知識や体力精神力全てを使って対応する。全力だ。
だから、自分の中の負の感情と闘っている母親達を絶望させるのに強烈な悪意だとか沢山の言葉は要らない。ほんのちょっと、その疲れた母親の背中をマイナス方向に優しく押すだけでどん底に崩れ落ちてしまうものなのだ。
ギリギリのところで踏ん張ってる。踏ん張らせられてるお母さんを他にも見てきた。
母親を応援したいのであれば、それを見守る周囲は自らの言動にくれぐれも注意しなければいけない。

地域の保健師さんや療育センター、病院の看護師さんは、その辺りを理解している人が多く、声色や言葉にかなり気を遣ってくれる。プロとして他人に寄り添う技を磨いてきた人達だ。
だがそれ以外の人は、たとえ長年共に過ごした夫や友人でも寄り添うことについては素人だ。

寄り添う力は個人差が大きくて、低い人は本当に低い。
多分その能力の必要性を感じずに生きている人達が世の中には一定数存在する。

■寄り添う力ってどんな力?

お芝居をしていたから感じる事だろうと思うが、寄り添う力は、私は『演技力』に凄く近いものだと思う。
偽物の言動という意味ではない。
お芝居の中の言葉や行動は少なくとも役者にとっては嘘でも偽物でもない。偽物気分で演じる役者は大根だ。一人一人の役者達がお芝居の世界を本物だと信じ(思い込み)、役者達が本気で怒り、喜び、悲しみ、楽しむことから現実と異なる世界が舞台上に創造されて観客席に広がり、観客はその世界観を楽しむ事ができるんだと思う。

自分とは違う人間(役)の立場で物事を感じ、考え、振る舞う。自分とは違う人間に「なりきる力」。
相手の視点で物事を考える力が「演技力」と「寄り添う力」の基本だと思うのだ。
演技力を構成する力には他にも表現力とか色々あると思うけど、それについては割愛。

この状況に置かれた時に、自分の役(自分以外の他者)はどんな心の動きをするのか。
それをすばやく掴むためには思考や感覚、価値観の柔軟性が必要。
自己愛や自分の思考・感覚・価値観に自信やプライドがある人ほど演技力や寄り添う力に欠ける。
「自分の視点」から離れられないから。

そしてそんな人は世の中珍しくない。

■自分の感覚に囚われずにいられるだろうか
出産前、未知の痛み(死亡もありうる)に恐怖感があって周りの主婦さんに相談した。
私は実家とは疎遠なので、頼れるのは今周りにいる人たちだけなのだ。

陣痛はやっぱり痛いんですよね、上手な乗り越え方はありますか?と尋ねたときの、ある主婦さんの言葉が心に残っている。
「死ぬほど痛かったよ! でも助産師さんに『赤ちゃんはもっと苦しんでいるんだよ!』って言われてハッとして、私がしっかりしなきゃと思った。赤ちゃんのことを考えれば大丈夫だよ」

似たような事が最近もあった。
手がかかる子どもに悩んで地域支援の心理士さんに相談した所、「一番苦しんでるのはお子さんですよ」と言われた。
それまで、お世話が尋常じゃなく大変だ…なのに誰も私を理解してくれない…と悩んでいたけど、子供の視点がすっぽり抜けていた事に気付かされた。
子供の世界では、いつもそばにいる大人である私は一番頼れる存在のはずで、その私が自分の悩みでいっぱいいっぱいになっていたら、子供に不安を抱かせる。

親は子どもが困っている事を察して、それに応じて助け舟を出す余裕が無いといけないのだ。特に小さいうちは。

自分の感情や感覚に囚われていてはいけないと思った。そんなもの二の次だ。
子どもは親の願いを叶えるために生まれてくるのではない。子どもの成長を助けるために親がいる。

誰もが皆、自分の人生では主役だ。
でも親子という関係性においては、親は脇役だ。
主役の子ども以上に目立ったり、出しゃばったりしてはいけない。

でも、この「子どもが主役」と言うのも勘違いされやすい言い方だ。
親が子どものわがままを何でも叶えてあげるとか、子どもが他者の心や体を傷つける事を許す(注意しない)とか、子どもがレストランで騒ぐ事について周囲に理解を求める(子どもは騒ぐものでしょ、という親の姿勢)とか、そういうことじゃない。
むしろそこは厳しくしないといけなくて、そんな事を許していると子どもは増長して手がつけられなくなる(らしい)。

人に迷惑をかけない範囲でやりたい事をやらせる。
子どもを信じて子どもに判断を任せる。
突き放す否定するのではなく見守る。
答えではなく考え方を教える。一緒に考える。
子どものための課題を親が奪わない。

親が「自分の主体性や感覚」から離れて子どもの視点に立って、子どもの主体性や感覚を大事にすることが求められてるんだと思う。

寄り添うとは、少しだけ自分のスイッチをOFFにして、相手の視点に立って、明るく応援する事のような気がする。相手の外側からじゃなくて内側で応援する。
自分の中のマイナスの感情に負けてしまってる時、自分の外側からの声はなかなか響かない。
頑張れ!には「気楽な立場で羨ましい」と思うし、ダメ出しだと「ああそうですか、何も知らない貴方の中ではそれが正しいんでしょうね」とツンツンしてしまう。
でも同じ視点に立って応援してもらえると、一人じゃない気持ちで心強く思えるし、アドバイスも聞いてみようかという気持ちになる。

「私こんなに大変なの! 分かってよ!」と全ての人に求めるのは間違いだし、家族や友人であってもできない人はできない。期待すると相手の重荷になってしまうからやめよう(自戒)。第一、本当に大変な人はもしかすると自分じゃないかもしれない。そこを見誤らないのが最重要(自戒)。

賢い人と学校の勉強が出来る人は違うと言うけど、この寄り添う能力もまた学力には関係ない。
これはこれで選ばれし人達だけが手に入れて磨いている魔法のような力だ。私は修行中の魔女ゆえ使える時と使えない時がある(←)

その寄り添う力で私を支えてくれる、選ばれし方々に尊敬と感謝の念を。

子どもが主役。親は応援者。
そして誰もが他者の気持ちを理解できるわけじゃない。

忘れないようにしたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?