わたしに有言実行は向いてない

ずっと有言実行する人をかっこいいなと思っていた。
目標を表明して、自分の思考をだれかにつたえることで可能性を広げ、着実に前に進んでいく人たち。
一般的にもなにか目標や夢を叶えたいならまわりに表明することで自分にも責任感がわいて、まわりの手助けを得られやすいから有言実行するほうがいいと言われることが多い気がする。私もその言葉を信じて、目標ができたら口にするようにしてきた。
志望校を友達に言ったり、新しく始めたことをまわりに言ったり。
結果はどうだったかというと結局全部うまくいかなかった。
当時は心底落ち込んだし、最近まで自分のやりたいこと、やると決めたことがうまく行かないこと、他人の期待を裏切ったことをひどく引け目に感じていたけれど、たぶんわたしには有言実行は向いてなかったのだと今は思う。
私は前のnoteの記事でもかいたとおり他人の感情や顔色に影響されやすい。感受性が強いといえば聞こえはいいけれど、自分自身がなにを感じてどう思っているかという部分があいまいになりやすい。共感し過ぎて誰かの感情をそのまま自分の感情だと思い込んだり、他人の考えをぶつけられると自分がどう考えていてもそっちに傾いたり。
他者との境界線が曖昧なのだろう。
だから、何かをやろうと決めたり、目標を持ったとき、それを自分以外の他者に見せた時点で、一気に増える雑音にすべてが押し流される。わたしの決断、決意、目標に対する他者の表情、感情や思考、言葉がわたしのなかに流れ込むように入ってくる。
曖昧な境界線がもっと曖昧になってわたしの感情や思考、言葉が侵されてしまう。
そうするとそれはもうわたしだけのものではなくなって、姿を変えてしまうのだ。
わたしだけの、わたし自身の目標で選択で決めたことでやりたいことだという感覚が完全になくなってしまい、ごちゃごちゃになった思考と感情が得たいのしれない不安を呼び、結局自分が頑張れたのか、本当にそれを成したかったのかすらわからなくなってしまう。
そんなわたしには有言実行は向いていない。
少なくとも不言実行のほうがまだましだ。
わたしがわたしの領域を守るためには、わたしがわたしの選択や決意を、迷いや葛藤を、思考や感情を、わたしのものとして生きていくためには、不言実行が必要なのだ。

もしかしたらもっとわたしが自分自身の輪郭を確立できたら、有言実行できる段階になるのかもしれない。けれど、今のわたしにはまだ自分のなかにあるものをもっと丁寧に自分のものとして扱うことが必要で、そのためには不言実行が向いているのだとおもう。

じゃあこういう感情をnoteに書くのは?とも思うけど、noteにはただ自分の手帳に書くような、そんな気分で、でももっと自分を客観視することで自分を気持ちを理解するのにちょうどいい気がするから書いている。

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