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社会と福祉の距離をどうやって縮めるか

いつもnoteでは自分の中で「普遍的」になっているものを見つけたときに自分の整理として書いています。多分これはいつになっても変わらないことなんだろうな、と思うことです。
当然、新しい知識ではないし、新鮮味のある内容ではないですが、自分のアーカイブとして残しているので、時折ついでにシェアしています。
結構新人育成などにも使える資料になりうるので重宝しています。
今日は、ややマインドセット的な話ではあるんですが、少なくとも福祉という仕事を生業にしている以上、ひとつの考え方だと自負しているので残しておきます。



僕は福祉業で生きていますが、「福祉」というカテゴリがいつかなくなってしまえばいいといつも思っています。

これは主観ですが、そういったカテゴリに分けてしまうことが、「普通と違う」というメッセージを含んでいると感じるからです。
「子供って書くと大人の所有物みたいな意味合いになるから『子ども』ってしろ」とか、「障害って書くとまるで害があるみたいだから『障がい』にしろ」みたいな議論ではなく、純粋に、そんなカテゴリが存在する必要がないくらいに「弱さ」や「生きにくさ」を持つ人を支えることが当たり前になったらいいな、という夢です。
きれいに言うと『ノーマライゼーション』とも言います。



【配慮、支援という名の差別と区別】

よく合理的配慮、って言葉を耳にするようになりました。
障がいを持った人が他の人と同じように人権を享受し行使できるように、という個別の調整や対応のことです。
2016年くらいかな?障害者差別解消法ってやつに制度として取り入れられたものらしいです。

個々が自主的に発揮する思いやりや便宜じゃなく、制度化された「配慮」

ちょっと斜に構えた見方なのは分かっています。批判をしたい、という話ではなくて、少し違和感として心のなかに残るんです。それって配慮なんだろうか、と。


何人も一般就労に出している中で、この合理的配慮、と呼ばれるものの意味を考えさせられることは多くて、負担をかけないようにただただ簡単な仕事さえさせていれば配慮のように履き違えているフシもちょくちょく見受けられるし、そもそも身体面のハンディキャップを抱えている人は、その人一人のために環境の整備をしないといけなくなるところではそもそも見向きもされない。
そうかと思えば、精神的に追い込んでしまうリスクへの配慮については、見えない分結局配慮なんてなかったり。
 

要は、「何を指して”配慮”としているのか」の温度差というか解像度というか、随分違うなぁ、という感触なんですね。

  
 
何か、結局「差別」とか「区別」をキレイな言葉に置き換えただけに思えてしまうのは僕だけなんでしょうか。

 
 
 

【何でもやってあげてしまって、本人の自主性や成長の可能性の芽を摘む「支援」】

一方、当事者達を見たときに時々感じることがあって。
なんかやたらに「支援馴れ」している方がいらっしゃるんですね。

ちょっと悪い表現になるかも知れませんが、自分の中で支援してもらうことを当たり前にしていて、「自分でできるようになる」ことへの意欲自体がそもそもなくなっている、という状況。
本人にしてみると、「え?それ自分がすること?」みたいになっていることも少なくないんです。

でもこれって、本人の責任の問題というよりも、僕達支援者が「自立へ向けた支援」を本当に行えているのか?っていう問題のほうが大きいような気がするんです。
支援者の支援力の質の問題なのか、段階ごと支援内容ごとで支援者が変わることによる本人のアセスメントなどの構造上の問題なのか、その両方なのか・・・。

 

ただ、あくまで自分の経験値の範囲では、例えば介護業界であれば、受けてきたサービスによっては「いたれりつくせり」をしてもらってきた方は、それが当たり前になって、自立とは程遠い状態になる。
障がい分野では、「できるようになるためにやってみる」という経験値はあまり踏んでいないことが多く、自分でも「できない=してもらう」の法則が定着してしまっているケースも多いです。



【福祉が担う役割】について

僕は、福祉業が負う役割って大きく2つあると思っています。


1つは、「自立のための支援」を謳い文句じゃなく成果で示すこと。

自立のための支援って、これ福祉の根幹の価値観になると思われるんですが、多分この「自立支援」って概念自体が曖昧で、支援者の間、支援機関の間でもその解釈の差が確実に存在しています。

僕達のやってきたことって、多分プロセスで判断するよりも「結果」で見ていったほうが良くて、シビアかも知れないけれど「結果」が伴わない支援を「仕方なかった」で片付けることは止めたほうがいいと思います。
僕らはプロであって、そこに「成果物」が伴わなければ嘘です。
つまり成果を伴わせられる支援の品質を確実に担保していることが必須です。


ちなみに僕はいつも支援を行うとき、相手が高齢の方であろうが、障がいを持たれている方であろうが、一貫して支援の中で相手の方に必ずやってもらうことがあって、それは

・自分を知ること
・自分と向き合うこと

なんです。

 
当然それぞれのレベルや状態があると思うんですが、どうしてもこれだけは避けれない、避けちゃいけない問題だと思っていて、何かしらの「生きにくさ」を持っているからこそ、「自分」との付き合い方が重要になります。

要はちゃんと『自分ごと』として捉えられるようになることが、初めて自立へのスタートラインに立てることだと思っています。ここを対象の方にシビアでもやんわりお渡しすることって、意外とされていないんです。

ちょっと変な表現かもしれませんが、「本人が自分の人生を生きる責任を、ご自分で果たせるように調整していくこと」が自立支援であり、最終的な福祉の根本思想じゃないかな、と思います。


2つめは、「社会のあり方」自体にコミットすることです。
 

「配慮をして下さい」とか「雇用して下さい」みたいに法に絡めながら、社会のあり方を提唱する形がメジャーなのかな?
 
少しずつ社会の向きは変わってきているな、という実感はありますが、同時にそれでも残る拒絶感、というか腫れ物にさわるような感じも浮き彫りになってる気がしてます。
少なくとも日本では。
 
 

なんか、そんな事よりもっとダイレクトなアプローチを生み出す方が結果訴求力が高まると思います。
 

社会に福祉ががっつり溶け込んだ『まち』を作る事だったり、
例え福祉サービスでは対象にならなくても、人生の全てのステージをシームレスにサポートするビジネスモデルの開発とか。
 
 

これも表現は悪いんですが、国や社会に「分かってよ、理解してよ!支えてよ!」って訴えるばかりじゃなくて、具体的に彼らが社会の中で生きていけるための形を、見せることの方が大事なんじゃないかと思っています。
 
 
みんな知らないから。
知らないから、不安だから避けたくなるんです。
リスクやハンディばかりしか見たことないから。
 
 
多分福祉がしなきゃいけないのは、当事者にも社会にも「安心」してやっていける事を、形として見せる事なんだと思います。 
 
 

僕達がしないといけない事、しっかり見定めていかないと、自己満足の福祉になっちゃうなぁ、と自分に言い聞かせながら、今日はこれくらいにしようと思います。

 
 
理解を訴える事じゃなくて、不安を取り除く事。
それが福祉ができる、社会へのコミットです。 
 
 



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