引き裂かれた姉弟と罪滅ぼしの邪神の話⑥
(前回の続きです)
姉さんとの過去を全て思い出した弟は、がああっと頭を掻きむしって、
「なんで!? なんで姉さんは死んでしまったんじゃ!? 俺には姉さんだけじゃったのに! 大切じゃったのに! なんで神は俺から記憶を奪った!? なんで!? なんでじゃ!?」
と大地を叩いて号泣しました。あまりに激しい悲しみに、僧侶はややたじろぎながら、
「その方との思い出がそれほど辛いなら、再び記憶を封じましょうか?」
見当違いの申し出に、弟は僧侶を睨みながら、
「悪いが、俺のことは放っておいてくれ。姉さんは俺のせいで死んだんじゃ。邪神の仕業だかなんだか知らんが、俺が姉さんを忘れて、まんまと騙されたから。その無念を忘れて自分だけ楽になろうとは思わん。俺には救いなんぞいらん」
弟は姉さんの死体を背負うと、家に持ち帰りました。娘の死体を見たおっかさんは、わなわなと震えて
「三年も待たせた挙句に死なせるなんて、とんだ疫病神じゃ! アンタなんか拾わせるんじゃなかった!」
泣きながら弟をバシバシと叩きました。弟はおっかさんの怒りをジッと受け止めながら、
「アンタが怒るのは当然じゃ。好きなだけ殴って罵ってくれてええ。じゃけど、足の悪いアンタを一人にしておくわけにはいかん。亡くなった姉さんの代わりに、俺にアンタの面倒をみさせてくれ」
姉さんを幸せにできなかったどころか、命まで奪ってしまった。姉さんが大切にしていたおっかさんを護ることだけが、今の弟にできる唯一の償いで、生きる意味でした。
しかし弟の申し出に、おっかさんはいっそう激しく怒って、
「アンタの世話になんてなりたくない! 消えろ消えろ! この家から出て行け!」
弟はおっかさんを刺激しないように、家の中には決して入らず、黙々と面倒を見ました。おっかさんにどれだけ「お前のせいだ」と責め立てられても、
「ああ、そうじゃ。俺は最低の男じゃ。姉さんは俺を拾うべきじゃなかった」
と自分がいちばん自分を責めました。
誰よりも深く姉さんの死を悔いる弟を、一方的に憎み続けることはできません。おっかさんの怒りは半年後に収まり、二人で暮らすようになりました。
弟は予定どおり自分の畑を買い、おっかさんと助け合いながら、淡々と暮らしました。仕事が無い時は、姉さんの墓のそばで本を読んでいました。
寺子屋もない村で誰が買うと思うのか、たまに本を扱う行商人が来るので、ちょうどよく新しい本が手に入りました。村人との会話は退屈なので、読書だけが唯一の娯楽でした。
弟自身は人と慣れ合うことを好みません。しかしお人よしの姉さんに育てられた弟は、彼女の居ないところでも
(こういう時、姉さんなら見捨てんのじゃろうな)
と困っている人がいたら、助けるようにしていました。特に街での仕事や本で身に付けた知識を使って、村人によく助言しました。
自分よりも若い者に指図されるのを好まない者もいますが、弟の指示はいつも的確だったので、皆なるほどと素直に従いました。
村人たちは弟に、お礼としてあれこれ食べ物を持って来てくれました。けれど弟はそれも
「俺とばあさんだけじゃ食い切れんから」
と貧しい人たちに無償で分けてやりました。
村人たちはかつて「誰にも懐かん野良犬だ」と嫌っていたことも忘れて、弟を大したヤツだと一目置くようになりました。
自分より目上の男たちからも頼りにされる、街帰りの働き者の青年とくれば、村の中しか知らない他の若者たちより優れて見えるものです。
弟のもとには未婚の娘やその親から「婿に来てくれ」とたくさんの申し出がありました。
しかし未だに人嫌いの弟は、
「用があれば聞くが、それ以外は構わんでくれ」
と固く心を閉ざして、自ら人を遠ざけました。
せっかく人に望まれながら、自ら孤独になろうとする弟を心配したおっかさんは、
「あの子はアンタが自分のために、不幸で居ることなんて望まないよ。分かったら過去のことは水に流して、新しい幸せを掴みなさい」
姉さんの件で自分を罰しているのだろうと、もう自分を許すように言いました。しかし弟はうるさそうな顔をして、
「村のヤツラといいアンタといい、勝手に人の幸せを決めつけんでくれ。俺は姉さんへの償いのために、独りで居るんじゃない。俺は好きで姉さんを想っとるんじゃ」
生きている人間と話すより、生前の姉さんの姿や言葉を思い出すほうが幸せなのだと言う弟に、
「いつまでも死んだ者に囚われて、一人で居ることの何が幸せじゃ!? 思い出の中に逃げ込んでないで新しい幸せを探せ! 自分の家族を作れ!」
それは弟の幸せを願うからこその叱咤だったのですが、
「じゃあ、ばあさんも姉さんを忘れるんか? 姉さんを思い出して愛しさや幸せを感じるのは逃げだから、自分ももう思い出さんで、他の子どもを見つけて幸せになるんか?」
弟の問いに、おっかさんはたじろいで、
「親子の縁と男女の縁は別じゃろう」
「なんも違わん。俺にとって姉さんは唯一の家族で女じゃ。代わりなんぞおらん」
弟はこれ以上の問答を拒むように、サッと立ち上がると、
「分かったらアンタこそ、俺のことは気にせんで安らかにしとれ。アンタに心配されんでも、俺は充分自分のいいようにしとるでの」
「こ、この捻くれ者めぇ!」
家に置き去りにされたおっかさんは、悔しさに床を叩きながら
(誰かあの捻くれ者の心をほどいて、娘への未練を断ち切ってくれ!)
と誰ともなく願いました。
けれど弟に好意のある娘たちは、すでに縁談を断られています。町と違って人の出入りの少ない村では、新しい出会いなど期待できません。
ところが、まるでおっかさんの願いを聞き届けたかのように、普通ならありえない奇跡によって、村にたくさんの人が訪れるようになりました。
とつぜん村に温泉が湧いたうえに、春は桜、夏は蛍、秋は紅葉など、今までは無かった木々や生物が現れて、美しくなった景観を目当てに旅行客が訪れるようになったのです。
普通ならあり得ない現象ですが、村の人たちは「神様のお陰じゃ」「これで村が潤う」と素直にありがたがりました。
弟だけは村人よりも知識がある分、なおさら目の前の現象が奇妙で
(こんなに突然環境が変わることがあるか? 気持ち悪い)
と気味悪がっていましたが、
(でも姉さんなら、綺麗じゃと喜んだかもしれん。こんなことなら桜がよく見えるように、山のほうに埋めてやるんじゃった)
「桜を見せてやれんで、すまんな」と姉さんの墓を撫でた翌日。
いつものように家を出た弟は、庭にある姉さんの墓の真後ろに、桜の木が生えているのを見つけました。
(いやなんでじゃ。たった一日で桜が生えるなんてありえんじゃろ)
人知では説明できない現象を前に、弟はふと寿命の半分と引き換えに、願いを叶える邪神の話を思い出し、
(……そこに神か何かおるなら、もう一度姉さんに会わせてくれ。一目でもええ。またあの人の姿が見られるなら、命でもなんでもくれてやるから)
目を閉じながら念じて、ゆっくりと開きました。けれど当然ながら、そこには誰も居ませんでした。
(……馬鹿じゃのう。神なんてもんがおったら、そもそも姉さんのような善人が死ぬはずがない。俺がやった金にも全く手を付けんで、苦労ばかりして……)
「……なんの楽しみも知らんまま一人で死んだんは、姉さんのほうじゃ」
生きる意味をくれたあの人を、今度は自分が護り、誰よりも幸せにしたかった。
弟のいちばんの願いは、もう叶いません。しかしまるでその代償のように、新しいご縁には次々と恵まれました。
村が半ば観光地化したことで、様々な娘たちが訪れました。美しい者。賢い者。気立てのいい者。身分の高い者。
特に最後に現れた娘は、桜の精のように美しいだけでなく、武家のお姫さまでした。さらには家同士の利害で結婚するのが普通の上流階級には珍しく、父親は娘の気に入った若者と結婚させたいと考えていました。
身分を伏せて訪れた親子の、足を挫いた父親をうっかり背負って宿に運んであげたことが縁で、弟は二人と知り合いました。
普通なら美しい娘に目をつけて、取り入ろうとして来るところ弟は
「旅の人か?」
「動けんのか?」
「どこまで連れて行けばええんじゃ?」
この三つだけ尋ねて用を済ませたら、名前も聞かず、さっさと帰ってしまったのが、かえって良かったようです。
「あの若者にぜひお礼をしたい」と父と娘が村人たちに聞いて回ると、
「そんなに不愛想なのは、あの男くらいじゃ」
とすぐに弟だと判明し、ついでに村でいちばんの知恵者であること、それなのに死んだ姉さんを偲んで、未婚を貫いていることも分かりました。
高潔を重んじる武家の親子には、弟の頑固さが好ましく映ったようで、すぐに弟への働きかけがはじまりました。弟は相手がお武家様で、自分を跡継ぎにしたいと考えていると聞き、流石に驚きましたが、
「ありがたいお話ですが、俺は村の者が言うほど役に立つ男ではありません。ただ姉が残したものを護りながら、死なずに生きているだけで精一杯です。とてもそちらの期待には応えられません」
と、やはり即座に断りました。
しかし心の優しい人ほど、傷ついた人に惹かれてしまうものです。父親は諦めようとしましたが、娘のほうは心を閉ざした弟が、余計に愛おしくなり、放っておけなくなりました。
そこで後日。今度は一人で弟の元へ来ると、
「どうか私に、あなたの心を癒させてください」
「あなたのお姉様以上に想ってくれとは言いません。私のことは亡くなったお姉様の次に愛してくださればいいから、どうかあなたのお傍においてください」
普通ならいじらしいと好意を持つのかもしれません。ところが弟は、自分の手を取る白魚のような指を見下ろし、不愉快そうに振り払うと、
「なんで俺がアンタを愛することが当然のように言う。俺はアンタみたいに綺麗な手をした女は少しも好きじゃない」
人の体には生活が表れます。特に手は苦労するほど、肌は荒れ、爪は割れ、手のひらは硬くなり、手の甲には血管が浮いて、指は醜く曲がっていきます。
そういう手を醜いと嫌う者も居ます。しかし、そういう手によって護り育てられて来た弟にとっては、
「アンタの手は人に護られるばかりで誰も護ったことのない苦労知らずの冷たい手じゃ。ただのうのうと幸せに生きて来ただけのアンタの、どこを愛せと俺に言うんじゃ」
生まれつき恵まれて愛されて美しい女など、どれだけ手を汚しても報われないまま死んでいった姉さんとあまりに違いすぎて、かえって憎いだけなのでした。
とうとう弟が武家のお姫様との縁談まで、あっという間に断ったことは、村中の噂になりました。流石にこれ以上の良縁が、弟にあるとは思えません。
その話を知ったおっかさんは、娘の墓を眺めながら、
(本当にアンタだけが、あの子の拠りどころだったんじゃな)
大人になって学を身に付けて、たくさんの人に慕われても、弟は未だ人間不信の野良犬のまま。唯一の拠りどころを奪われた弟も、それほど愛されながら結ばれずに死んだ娘もあまりに不憫で
(もし記憶を無くさなければ何事も無く結ばれて、誰よりも仲のいい夫婦になったじゃろうに。どうしてこんな酷いことが起こるんじゃろう。やっぱり神様なんておらんのかね……)
と心を痛めました。
🍀もう少しだけ続きます。ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました🍀