引き裂かれた姉弟と罪滅ぼしの邪神の話・完
(前回の続きです。最終回)
ところが肝心の罪滅ぼしは、全くうまくいきませんでした。今のところ弟が姉さんに会いたい以外に願ったのは、唯一「本が読みたい」だけ。
「本が読みたい」を叶えても気休めにしかならないことは分かっていました。それでも知識があって困ることは無いと、
(どうせなら人の世で役に立つ知識をつけさせてやろう。この男は頭がいいようだし、知恵をつけさせれば、おのずと成功するはずだ)
邪神は行商人に化けて、弟に役立つ本を届けました。邪神の見込みどおり、弟は本から得た知識を生かして、村人たちを助けて尊敬されるようになりました。
ほとんどの人間は周りに能力を認められ、賞賛されれば喜びます。しかし弟は
(人が役に立つ者に群がって、いい顔をするのは当たり前じゃ。欲しいのは利得であって、俺を慕っとるわけじゃない)
浮かれるどころか冷めた態度で、
「用があれば聞くが、それ以外は構わんでくれ」
と、せっかく人気になったにも関わらず、自ら人を遠ざけました。
そんな弟の反応に邪神は、
(アイツはどれだけ気難しいんだ……)
人を呪いまくっていた過去の自分を棚にあげて、頭を抱えました。富や成功や賞賛では、弟を幸せにできないと理解して
(やはり女を失った苦しみは、新しい女で埋めるしかないか)
その計画の一環として、邪神は村に温泉を湧かせ、四季折々の木々を生やさせました。温泉や美しい景色を目当てに、村に人を呼び込もうとしたのです。
時のことは時の神に頼まなければならなかったように、湯を湧かし蛍を飛ばし木々を生やすには、他の神の協力が必要でした。
時の神と同じように「君の罪滅ぼしに巻き込むな」と突っぱねられるかもしれないと、恐れながらの要請でしたが、
「協力してもいいけど、お願いだから、もうガッカリさせないでね」
「わしたちだって徒労は嫌なんだからな」
意外にも木の神、虫の神、湯の神は、渋々ではありますが、協力してくれました。墓の後ろに桜の木が生えたのも、これらの神の働きによるものでした。
しかし
――そこに神か何かおるなら、もう一度姉さんに会わせてくれ。一目でもええ。またあの人の姿が見られるなら、命でもなんでもくれてやるから。
弟のいちばんの願いだけは、聞いてはいても叶えられませんでした。それでも
(新しい出会いがあれば、過去を忘れられるはずだ)
しかし邪神の期待とは裏腹に、弟は出会う女、出会う女、向こうは好意を寄せてくれているのに、少しも悩まず切り捨てました。誰の目にもいちばんの良縁だった桜の精のように美しい娘の告白にも、心を動かされるどころか、
「ただのうのうと幸せに生きて来ただけのアンタの、どこを愛せと俺に言うんじゃ」
と手酷く拒絶しました。
姉さんを失ってから三年。自分が用意できるいちばんの良縁すら無意味だと切り捨てた弟を見て、邪神は改めて、自分は本当に取り返しのつかないことをしたのだと悟りました。
(人間は本当に厄介だ。望めばすぐにでも幸せになれるのに、自らのこだわりによって自らを苦しめる)
けれど、こだわっているのは邪神も同じです。弟は邪神の存在を知りません。知らない者に罪滅ぼしを求めるはずがありません。
弟に罪滅ぼしをしなければという想いもまた、弟の姉さんへの想いと同じ、本当は必ずしもする必要のない、自分だけのこだわりなのです。
姉さんと出会う前、弟は愛を知らない野良犬でした。
彼らと出会う前、邪神は憐れみを知らない怪物でした。
いま自分たちを苦しめるこれらの感情を捨てれば、苦悩も無くなる代わりに、生きている価値も無くしてしまう。
だから弟はどれほど周りに言われても、姉さんの想いを捨てないのだ。姉を想う気持ちだけが、弟を人で居させてくれるから。
そして人の気から生まれた邪神も、同じように思いました。他の神ならきっと愚かと呼ぶだろう、人間ならではのこだわりと執着が、自分にはとても大事だと。命をかけてでも護ってやりたいと。
邪神は再び時の神のもとに向かいました。一生に一度の願いをかけるために。
弟と別れてから村に帰る途中の山道。野盗に目をつけられた姉さんは、脅されて金を取られたうえに、女だとバレて、もっと酷いことをされそうになりました。夢中でもがいて逃げ出す背中を、野盗は恐ろしい怒声を上げながら追いかけて来ます。
(嫌じゃ。怖い。誰か。助けて)
しかし都合のいい助けなど現れず、山中をデタラメに逃げまどい、ついに姉さんは崖から足を滑らせて
(死んだ)
宙に投げ出されて死を悟った瞬間。何か大きなものに、受け止められた気がしました。
そこで気を失ったのか、次に目を覚ました時。姉さんは崖の下で仰向けに横たわっていました。
(なんであんなに高いところから落ちたのに、おらには傷一つ無いんじゃろう?)
姉さんは自身の無事を不思議がりましたが、
(もしかすると、神様が助けてくださったのかもしれねぇ。辛いこともあるけど、本当に必要な時は助けてくださるんじゃ。見守ってくださっとるんじゃ)
ありがてぇ、ありがてぇと涙ぐみ、感謝しますと手を合わせて家路につきました。
村に帰ると、ほんの少し留守にしていただけなのに、多くの人でにぎわっていて、知らない建物もずいぶんできていました。姉さんは故郷の激変に驚きながら、
(こんな賑やかな村じゃなかったのに、まるで知らない村に来たみたいじゃ)
しかし知らない村にしては、見覚えのある家々も見えます。自分の家も見つかったので、遠慮がちに戸を開けると、
「おっかさん。ただいま。いま帰ったよ」
死んだはずの娘が生前と変わらぬ姿で帰って来たことに、おっかさんは驚きました。
(なんじゃ? わしは夢でも見とるのか?)
信じられない現象を前に硬直するおっかさんに、
(なんでそんなに驚くんじゃ?)
と姉さんは首を傾げました。けれど、おっかさんにどうしたのと尋ねる前に、ガシャンと鍬の落ちる音がして背後を振り返ると、
「姉さん? 姉さんなのか?」
目の前の若者が誰なのか、姉さんには一瞬分かりませんでした。街で見た時の格好とは違っていましたし、最後に見てから三年も経っているからです。
それでも、すっかり大人びた弟の顔に、昔の面影を見つけた姉さんは、
「……えっ? ど、どうしてアンタがここにおるんじゃ? アンタは大店の娘さんと結婚したんじゃ」
叶うはずがないと思いながら、ずっと願い続けていた奇跡が起きたことに、弟は泣きそうになりながら、
「他の女と結婚なんてするはずがない。俺が好きなのは、ずっと姉さんだけじゃ」
夢ではないと確かめるように、姉さんを抱き締めました。弟と別れた直後から、いきなり三年後の世界に飛ばされた姉さんには、飲み込めないことばかりでした。
しかし自分を抱きしめる弟の腕の確かな感触に、
(本当に本当なんか? 夢じゃないんか? もう手が届かないものと思って諦めないでいいんか?)
姉さんは自分も弟の背中に腕を回しながら、
「すごく怖い夢を見たんじゃ。街に行ったアンタが記憶を無くして、他の娘さんと結婚してしまう夢。アンタは上等な着物を着とって、とても綺麗なお嫁さんをもらって、大店の跡取りになって、すごく幸せそうなのに……おら、本当は嫌だったんじゃ」
あのとき飲み込んだ想いを、涙とともに溢れさせると、
「もうどこにも行かんで。ずっとここにおって」
子どものように泣きじゃくる姉さんを、弟はいっそう強く抱きしめて、
「それはこっちの台詞じゃ。夢なら醒めんでくれ。どこにも行かんでくれ」
以前とは違う温かな涙を流しながら、固く抱き合う二人を見て、邪神もまた泣いていました。
元凶である自分が、犯した罪の始末をつけただけのことに、こんな風に感じるのは間違いかもしれません。それでも、ただ願いを叶えるだけでなく、人とともに泣き、喜べたことで、はじめて人の神としての本分を果たせた気がしました。
(弟の言うとおりだった。愛されるより、愛せるほうが幸せだ)
(俺は悪いことばかりして誰にも愛されなかったが、最後に人を愛する喜びを知れた。お前たちの幸せを、この目で見られたから幸せだ)
生まれた意味はそれで十分だと、邪神は心から思いました。
そして三年前に時を繋げて、姉さんを救わせてくれた時の神に
「無理を聞いてくれて、ありがとう。俺も約束を果たす。消滅させてくれ」
と我が身を差し出しました。しかし時の神は、以前の冷徹さが嘘のように優しく笑って、
「残念ながら、君を消滅させることはできない。君と約束しているのは僕だけじゃないからね」
「俺はあなたの他に、誰とも約束など」
「君が力を借りたのは僕だけじゃないだろう。他の神たちとも約束したはずだ」
言われてみれば、邪神は村に温泉を湧かせ、蛍を呼び木々を生やした時に、湯の神や虫の神や木の神に、協力する代わりに、もうガッカリさせない。徒労だったと思わせないと約束していました。
「ここで君を消滅させたら、みんなガッカリするし徒労だったと嘆くだろうさ。人を救うために生まれた人の神を、救うことは不可能なのかと。いつまで君たちの憎悪と後悔と自滅を見続けなければならないのかと」
黙り込む邪神に、時の神は続けて、
「昔、君に言ったことは嘘じゃないよ。もう君が消滅と再生を繰り返す様は見たくない。特に今ここに居る君は、人のために他の神に頭を下げて、自分の消滅と引き換えに人の幸福を願えるほど、慈しみの深い神になれたのだから」
他の神の慈悲に触れるほど、邪神には自分にはそんな資格が無いように感じました。自分の最後の被害者である、この子たちは幸せにできましたが、過去に自分が不幸にして来た者たちにだって、本当は尊い部分があったかもしれないのです。
(そんな俺に神として在り続ける資格など……)
しかし邪神の考えを読んだように、時の神は、
「罪を知ったからこそ、繰り返さないことができるんだよ」
「君はまた過ちを犯すかもしれない。でも逃げず消えず絶望せず、この世に在り続ける限り、君は少しずつ賢くなって、いつか必ず人のための神として相応しい存在になれる」
「だからもう消えないで、ここに在り続けてくれ。善だけではなく過ちと後悔も知る君だからこそ、人の神に相応しい」
時の神の言葉に、人の神は涙を流しながら頷きました。
さらに時は過ぎて、ある春の晴れた日。庭に生えた桜の木の傍で、洗濯物を干す母親に、坊やがこんな質問をしました。
「なぁ、おかあ。おかあは神様はおると思うか?」
「なんで、そんなことを聞くんじゃ?」
「じゃって不思議なんじゃ。どうしてみんな見たこともないもんを、疑いもせずに信じるのか。神様がおるならなんで、おらたちにはできる者とできん者。持っとる者と持っとらん者。助かる者と助からん者が居て、その差に苦しむようにできとるのか」
子どもらしからぬ坊やの質問に、母親は目を丸くして、
「アンタはおとうに似て頭がええんじゃねぇ」
坊やの頭を撫でてやりつつ、さて難しい質問じゃなぁ。どう答えようと、ちょっと迷いました。
神様に助けられたと感じたことが、母親には幾度もあります。けれど坊やの言うとおり、不幸な人が居るのも事実です。自分自身も、いつでも護られている。恵まれていると感じられるわけでもありません。
ですが、それでも
「おらには難しいことは分からんけど、見えねぇからこそ神様がおってくださると信じとるよ」
「なんで?」
「じゃって、せっかくおらたちを護ってくださっとるのに、見えないからおらんと思われとったら悲しいじゃろう? じゃから見えなくて分からんからこそ、ちゃんと信じたいんじゃ」
何度悲しみに覆い隠され見えなくなっても、誰かに護られている。恵まれていると感じる瞬間が母親にはあります。それはきっと、
「神様は人間が思うほど万能じゃなくて、どんだけ悔しくても叶えられんことがあるのかもしれんけど、きっといつも傍におって、おらたちの喜びも悲しみも見守ってくださっとると、おらは思うんじゃ」
だからどんな不都合があっても、自分は神様を信じる。見えなくても与えられている愛に、忘れずにありがとうを言いたいからと、母親は坊やに言いました。
その時、ふわりと、
「わぁ」
風も無いのに桜が舞って、坊やは歓声をあげました。それは奇跡と呼ぶにはあまりに些細な出来事でしたが、母を慈しむように降った花びらに坊やははしゃいで、
「今の神様かのう? 俺たちの話を聞いとって「ここにおるよー」って知らせてくれたんかのう?」
目を輝かせて喜ぶ坊やを、母親はニコニコと見下ろして、
「きっと、そうじゃねぇ。「いつも見とるよー」って、おらたちに知らせてくれたんじゃねぇ」
そんな二人のもとに
「なんじゃ二人して嬉しそうじゃの。なんかええことでもあったのか?」
「あっ、おとう! あのなー、今なー――……」
温かな春の日差しの中で、親子は日常の幸福を分かち合いました。見えない神様に、いつまでも大切に見守られながら。
🌸長いお話にも関わらず、最後までお付き合いくださり、ありがとうございました🌸